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国外追放のシーボルトに妻が送った最初の手紙見つかる
2018-10-02 08:59:37

江戸時代に日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師、シーボルトが、国外に追放されたあと、日本に残された妻が送った最初の手紙がオランダの大学の図書館に保存されていることがわかりました。専門家は当時のシーボルトの私生活を知る貴重な資料だとしています。
この手紙は1830年12月25日にシーボルトの日本人の妻で、「お滝」と呼ばれていた楠本滝がシーボルトに宛てて出したものです。
オランダのライデン大学図書館が所蔵するシーボルトの助手が残した資料の中にあり、大学の関係者の依頼を受けて調査した福岡市の西南学院大学の宮崎克則教授が確認しました。
宮崎教授によりますと、日付から国外に追放されたおよそ1年後に「お滝」が送った最初の手紙とみられるということです。
「お滝」は手紙の中で、シーボルトが国外追放されてから叔父の元へ居候していることや、シーボルトとの間に生まれた娘で「お稲」と呼ばれていた「楠本イネ」について「心配はいらない」などと伝えています。
ただ、「お稲は毎日、あなた様のことばかり尋ねてきます。私もあなたへの思いを焦がしています。病気にならないよう祈っています」などとつづり、寂しさを伝えながら夫を気遣っています。
宮崎教授は「当時のシーボルトとお滝の私生活や関係を知るうえで貴重な資料だ」と話しています。
オランダのライデン大学図書館が所蔵するシーボルトの助手が残した資料の中にあり、大学の関係者の依頼を受けて調査した福岡市の西南学院大学の宮崎克則教授が確認しました。
宮崎教授によりますと、日付から国外に追放されたおよそ1年後に「お滝」が送った最初の手紙とみられるということです。
「お滝」は手紙の中で、シーボルトが国外追放されてから叔父の元へ居候していることや、シーボルトとの間に生まれた娘で「お稲」と呼ばれていた「楠本イネ」について「心配はいらない」などと伝えています。
ただ、「お稲は毎日、あなた様のことばかり尋ねてきます。私もあなたへの思いを焦がしています。病気にならないよう祈っています」などとつづり、寂しさを伝えながら夫を気遣っています。
宮崎教授は「当時のシーボルトとお滝の私生活や関係を知るうえで貴重な資料だ」と話しています。
「資料的価値非常に高い」
シーボルトに関する資料を展示している長崎市のシーボルト記念館の織田毅館長は「お滝がシーボルトに宛てた手紙はいくつか残っているが、最初に送った手紙は全く知られておらず、資料的な価値が非常に高い。手紙の内容からお滝のシーボルトへの愛情の深さをうかがうことができ、歴史上の人物を身近に感じることができる」と話していました。
シーボルトとお滝
シーボルトは、およそ200年前の1823年にオランダ政府の命を受けて来日し、長崎の出島にあったオランダ商館で医師として活動しました。
来日後、私塾を開き、西洋医学を伝えたシーボルトは、「お滝」と呼ばれる日本人女性、楠本滝と結ばれ、娘の「お稲」、楠本イネが生まれます。
お稲は後に、日本初の西洋医学の女性医師となった人物としても知られています。
オランダに帰国する時、持ち出しが禁じられていた日本地図などが収集物から見つかって、シーボルトは1829年、国外追放処分となり、これが「シーボルト事件」と呼ばれています。
今回、確認された手紙には、お滝とお稲の絵が描かれたたばこ入れが同封され、手紙でお滝は「これを私と娘だと思って朝も夕も見て頂ければ」とつづっています。
シーボルトは国外追放が解かれた30年後に再び来日し、お滝やお稲との再会を果たし、1866年、故郷のドイツで70歳で亡くなりました。
来日後、私塾を開き、西洋医学を伝えたシーボルトは、「お滝」と呼ばれる日本人女性、楠本滝と結ばれ、娘の「お稲」、楠本イネが生まれます。
お稲は後に、日本初の西洋医学の女性医師となった人物としても知られています。
オランダに帰国する時、持ち出しが禁じられていた日本地図などが収集物から見つかって、シーボルトは1829年、国外追放処分となり、これが「シーボルト事件」と呼ばれています。
今回、確認された手紙には、お滝とお稲の絵が描かれたたばこ入れが同封され、手紙でお滝は「これを私と娘だと思って朝も夕も見て頂ければ」とつづっています。
シーボルトは国外追放が解かれた30年後に再び来日し、お滝やお稲との再会を果たし、1866年、故郷のドイツで70歳で亡くなりました。
ソース:NHK ニュース