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大川小学校の津波訴訟 裁判所が認定した51分間
2016-10-26 10:03:51

東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校の児童の遺族が訴えた裁判。遺族は裁判を通じて地震の発生から津波が到達するまでの51分間に学校で何があったのかを明らかにしてほしいと訴えを起こしました。
26日の判決が認定した51分間は次のとおりです。
平成23年3月11日午後2時46分。大川小学校で激しい揺れに襲われました。学校では揺れが収まったあとに校庭への避難を開始し、午後3時ごろまでに100人余りの児童と11人の教員全員の避難を終えました。
当時、学校では校長が不在だったため、教頭が避難の指揮を執りました。校庭では地震の直後から児童を迎えに来た保護者が続々と訪れたほか、地域の住民も避難してきて、学校側は対応に追われました。
学校では午後3時前から、防災行政無線で大津波警報が発表され沿岸に近づかないように呼びかける音声が流れていました。しかし、当時はこの学校が津波からの避難場所に指定されていることなどから、学校は校庭にとどまり続けました。この間、一部の住民が教員に「津波だから高いところへ登れ」と言ったほか、児童を迎えに来た保護者の中にも、学校の裏山を指しながら「山に逃げて」と話す人もいました。一方で、「学校にいたほうが安全だ」と話す住民もいたということです。
地震から40分余りが経過したころ、学校近くの沿岸部に巨大な津波が到達し、近くで広報車を運転していた市の職員が松林を襲う津波を目撃しました。この職員は遅くとも午後3時半までに、広報車で津波が松林を襲ったことを告げ、高台への避難を呼びかけました。
当時、校庭にいた教職員の中で唯一生き残った男性教員は、この広報車の呼びかけを聞き、教頭に「危なくても山へ逃げますか」と問いかけたと言います。
その後、学校は裏山ではなく、標高7メートル余りの川沿いの交差点に移動することを決め、午後3時35分ごろまでに歩いて校庭を出発しました。そして、その途中で津波に襲われました。学校に津波が到達したのは、地震発生から51分後、午後3時37分ごろでした。
平成23年3月11日午後2時46分。大川小学校で激しい揺れに襲われました。学校では揺れが収まったあとに校庭への避難を開始し、午後3時ごろまでに100人余りの児童と11人の教員全員の避難を終えました。
当時、学校では校長が不在だったため、教頭が避難の指揮を執りました。校庭では地震の直後から児童を迎えに来た保護者が続々と訪れたほか、地域の住民も避難してきて、学校側は対応に追われました。
学校では午後3時前から、防災行政無線で大津波警報が発表され沿岸に近づかないように呼びかける音声が流れていました。しかし、当時はこの学校が津波からの避難場所に指定されていることなどから、学校は校庭にとどまり続けました。この間、一部の住民が教員に「津波だから高いところへ登れ」と言ったほか、児童を迎えに来た保護者の中にも、学校の裏山を指しながら「山に逃げて」と話す人もいました。一方で、「学校にいたほうが安全だ」と話す住民もいたということです。
地震から40分余りが経過したころ、学校近くの沿岸部に巨大な津波が到達し、近くで広報車を運転していた市の職員が松林を襲う津波を目撃しました。この職員は遅くとも午後3時半までに、広報車で津波が松林を襲ったことを告げ、高台への避難を呼びかけました。
当時、校庭にいた教職員の中で唯一生き残った男性教員は、この広報車の呼びかけを聞き、教頭に「危なくても山へ逃げますか」と問いかけたと言います。
その後、学校は裏山ではなく、標高7メートル余りの川沿いの交差点に移動することを決め、午後3時35分ごろまでに歩いて校庭を出発しました。そして、その途中で津波に襲われました。学校に津波が到達したのは、地震発生から51分後、午後3時37分ごろでした。
ソース:NHK ニュース