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真田さなだまるはつ発掘はっくつ調査ちょうさ 盛り土もりつちほりあと発見はっけん

2016-12-09 08:35:13

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戦国せんごく時代じだい天下てんか統一とういつたした豊臣とよとみ秀吉ひでよしかた武将ぶしょう真田さなだ幸村ゆきむら、こと信繁のぶしげが「大坂おおさかふゆじん」でだい坂城さかきみなみきずいた出城でしろ、「真田さなだまる」のはじめての学術がくじゅつてき発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれ、盛り土もりつちられるあとなどがつかりました。一連いちれん調査ちょうさでは巨大きょだいほりられるあとなども確認かくにんされ、真田さなだまる実態じったいせま成果せいかとして注目ちゅうもくされています。
この発掘はっくつ調査ちょうさは、専門せんもん地元じもと住民じゅうみんなどでつく協議きょうぎかい江戸えど時代じだい絵図えずをもとに真田さなだまるみなみはじ付近ふきんだったとられる大阪おおさか天王寺てんのうじ駐車ちゅうしゃじょう先月せんげつからおこないました。

協議きょうぎかいによりますと、真田さなだまる学術がくじゅつてき発掘はっくつ調査ちょうさはじめてで、調査ちょうさ結果けっか地下ちかおよそいちメートルほどのふかさで周囲しゅうい地層ちそうとはちが黄色きいろそうつかりました。このそう自然しぜん堆積たいせきしたものとはちが形状けいじょうになっていることなどから人工じんこうてき盛り土もりつちあととみられ、真田さなだまる基礎きそ一部いちぶ可能かのうせいがあるということです。

また、発掘はっくつ先立さきだっておこなわれた航空こうくう写真しゃしん分析ぶんせき地下ちかのレーダー探査たんさでは、この付近ふきん東側ひがしがわ西側にしがわ、それに南側みなみがわさんぽうかこむようにほりられるあと確認かくにんされ、真田さなだまるほり推定すいていされるということです。このうち南側みなみがわほりられるあとはばおよそよんぜろメートル、ふかさがいちぜろメートル以上いじょうながさはこれまでかんがえられていたよりもぜろメートルほどながさんぜろぜろメートルほどあり、真田さなだまるおおきなほりそなえた四角形しかっけい出城でしろだった可能かのうせいたかいということです。

発掘はっくつ調査ちょうさおこなった「『真田さなだまる発掘はっくつ推進すいしん協議きょうぎかい」の会長かいちょう奈良なら大学だいがく千田せんだ嘉博よしひろ教授きょうじゅは、「市民しみん協力きょうりょく発掘はっくつ調査ちょうさ実現じつげんした。真田さなだまる徳川とくがわかた完全かんぜん破壊はかいされたとされていたが、痕跡こんせきのこっている可能かのうせいてきた。とてもロマンをかんじる発見はっけんだ」とはなしていました。

なぞつつまれた「真田さなだまる」とは

真田さなだまるは、豊臣とよとみ秀頼ひでより徳川とくがわ家康いえやす軍勢ぐんぜいたたかった「大坂おおさかふゆじん」で、豊臣とよとみかた武将ぶしょう真田さなだ幸村ゆきむらられる信繁のぶしげが、大坂おおさかしろ南側みなみがわにあたる現在げんざい大阪おおさか天王寺てんのうじ付近ふきんきずいたとされる出城でしろです。

当時とうじ大坂おおさかしろは「難攻不落なんこうふらくしろ」とされていましたが、南側みなみがわ平野へいや空堀からぼりしかなく、徳川とくがわかたとの決戦けっせんまえ弱点じゃくてんおぎなうためにつくられたとされています。当時とうじ記録きろくなどによりますと、真田さなだまる上下じょうげだんがまえの射撃しゃげき構造こうぞうほりそなえた出城でしろで、ふゆじんではぜろぜろぜろにんほどのへいかごもって、徳川とくがわかたいちまんにん以上いじょう死者ししゃおおきな被害ひがいあたえたとわれています。

しかし、真田さなだまるは、ふゆじんのあと徳川とくがわかた跡形あとかた破壊はかいされ、くわしい場所ばしょ構造こうぞうなどについても、ほとんど史料しりょうのこっておらず、なぞ出城でしろとなっていました。
ソース:NHK ニュース