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真田幸村の最期 新資料で謎に迫る企画展 福井
2016-12-18 08:59:41

福井市の福井県立図書館で開かれている企画展には、越前藩主・松平家に伝わる真田信繁の最期に関する資料7点が展示されています。このうち4年前、県立図書館で見つかった大坂夏の陣について書かれた覚書では、「越前藩士・西尾宗次は、身分の高い敵と遭い、やりで戦って名前も知らないままに討ち取った。のちに討ち取った首が真田信繁のものだとわかった」と記されています。
さらに、同じく県立図書館でことし見つかった西尾が書いたとされる手紙の写しには、自分が信繁を討ち取り、徳川家康にその首を献上したという内容が記されています。これまで信繁の最期については、戦いで疲れて動けなくなっているところを討ち取られたとする説が一般的でしたが、西尾が直接戦ったとする説を補強するものだと解説されています。
福井県立図書館の長野栄俊主任は、「謎に包まれた真田の最期について紹介しているので楽しんでほしい」と話していました。この企画展は今月28日まで開かれています。
さらに、同じく県立図書館でことし見つかった西尾が書いたとされる手紙の写しには、自分が信繁を討ち取り、徳川家康にその首を献上したという内容が記されています。これまで信繁の最期については、戦いで疲れて動けなくなっているところを討ち取られたとする説が一般的でしたが、西尾が直接戦ったとする説を補強するものだと解説されています。
福井県立図書館の長野栄俊主任は、「謎に包まれた真田の最期について紹介しているので楽しんでほしい」と話していました。この企画展は今月28日まで開かれています。
通説は「無抵抗説」
大坂夏の陣で真田信繁を討ち取ったのは、福井藩士の西尾久作。のちの仁左衛門、宗次だとされています。信繁は西尾にどう討ち取られたのか。最も知られているのは「戦いで疲れ抵抗できない信繁が、福井の無名の武士に討ち取られた」というものです。信繁が「手柄を取らせよう」とみずから首を差し出し、討ち取らせたとも言われています。
戦国大名の細川忠興が大坂の陣で耳にしたことを国元の重臣へ書いた書状では、「真田の首は越前の武士が持って行ったが、真田が傷を負ってくたびれているところを討ち取って首をあげたということで、全く手柄ではない」と記され、討ち取ったことが不名誉であるかのように伝えています。
家康をあと一歩のところまで追い詰めながら目的を果たせなかった信繁が、越前藩士に抵抗できずに討ち取られた「無抵抗説」は、その後、ロングセラーとなっている池波正太郎の小説『真田太平記』や、多くの歴史の本や漫画にもなり、信繁の最期として印象的に伝えられてきました。
戦国大名の細川忠興が大坂の陣で耳にしたことを国元の重臣へ書いた書状では、「真田の首は越前の武士が持って行ったが、真田が傷を負ってくたびれているところを討ち取って首をあげたということで、全く手柄ではない」と記され、討ち取ったことが不名誉であるかのように伝えています。
家康をあと一歩のところまで追い詰めながら目的を果たせなかった信繁が、越前藩士に抵抗できずに討ち取られた「無抵抗説」は、その後、ロングセラーとなっている池波正太郎の小説『真田太平記』や、多くの歴史の本や漫画にもなり、信繁の最期として印象的に伝えられてきました。
相次ぐ新資料 定説は覆るか
4年前、福井県立図書館で、信繁は大坂の夏の陣で越前藩士の西尾仁左衛門、のちの宗次にやりを交わして討ち取られたとする資料が新たに見つかりました。大坂の陣における越前藩主の功績について書いた覚書で、「西尾は身分の高い敵とあい、槍をかわし、名前も知らないままに討ち取った。のちに討ち取った首が真田信繁のものだとわかった」と記されています。
通常、手柄をあげたことを伝えたければ、名乗り合って華々しく戦ったと主張してもおかしくありません。しかし手紙には、西尾は討ち取った相手が誰かを知らずにあとから敵将の信繁だとわかったとしていて、かえって信頼性が高いと評価する声もあります。
福井県立図書館の長野栄俊さんは、「ふつうなら手柄をあげたことを自慢するため、例えば名乗り合って戦ったと主張するはずだが、あとから信繁だと気付くあたりが、ちょっと間が抜けていて、かえって信憑性がある」と話しています。
さらに、この説を補強する資料がことし、福井県立図書館で見つかりました。西尾本人が書いたとされる手紙の写しには、「殿様=藩主の馬の先において真田に出会い、槍を合わせて討ち捕り、天下様=家康へ首を差し上げた」と記されています。西尾本人が、無抵抗の信繁を打ち取ったのではなく、堂々とやりで戦って討ち取ったと主張しています。
これまで大坂夏の陣の真田信繁、幸村に関する資料は、戦に加わっていた別の藩に伝わる資料など第三者が書いたものや、フィクションが混じる軍記物などが多いため、西尾がどのよう手柄をあげたか、みずから主張している様子が注目されています。
通常、手柄をあげたことを伝えたければ、名乗り合って華々しく戦ったと主張してもおかしくありません。しかし手紙には、西尾は討ち取った相手が誰かを知らずにあとから敵将の信繁だとわかったとしていて、かえって信頼性が高いと評価する声もあります。
福井県立図書館の長野栄俊さんは、「ふつうなら手柄をあげたことを自慢するため、例えば名乗り合って戦ったと主張するはずだが、あとから信繁だと気付くあたりが、ちょっと間が抜けていて、かえって信憑性がある」と話しています。
さらに、この説を補強する資料がことし、福井県立図書館で見つかりました。西尾本人が書いたとされる手紙の写しには、「殿様=藩主の馬の先において真田に出会い、槍を合わせて討ち捕り、天下様=家康へ首を差し上げた」と記されています。西尾本人が、無抵抗の信繁を打ち取ったのではなく、堂々とやりで戦って討ち取ったと主張しています。
これまで大坂夏の陣の真田信繁、幸村に関する資料は、戦に加わっていた別の藩に伝わる資料など第三者が書いたものや、フィクションが混じる軍記物などが多いため、西尾がどのよう手柄をあげたか、みずから主張している様子が注目されています。
専門家 さらなる資料発見に期待
大坂の陣に詳しい大阪城天守閣北川央館長は、「西尾本人がどういう主張をしたのか、彼自身の言葉でわかるようになったのは非常に大きい」としたうえで、「西尾が信繁と戦ったという資料が徳川幕府側から見つかれば、非常に有力な資料になると思います」と話し、本人や身内ではない第三者から新たな資料が見つかることに期待を寄せました。
そして、「信繁が秀頼を守って薩摩に落ちて、生涯、秀頼を守ったという伝説もある。ファンとしてどういう最期が望ましいのか、いろいろ謎に包まれていることにロマンがある」と話し、大河ドラマ「真田丸」の最終回がどのように描かれるか期待していました。
そして、「信繁が秀頼を守って薩摩に落ちて、生涯、秀頼を守ったという伝説もある。ファンとしてどういう最期が望ましいのか、いろいろ謎に包まれていることにロマンがある」と話し、大河ドラマ「真田丸」の最終回がどのように描かれるか期待していました。
越前藩に信繁との深い関わり
現在の福井県北部を治めていた松平忠直率いる越前藩は、信繁と大坂の陣で深い関わりがあります。大阪城天守閣が所蔵する「夏の陣図屏風」には、最前列に布陣した越前藩と、旗指し物やかっちゅうを赤でそろえた真田隊が激突する様子が描かれています。
「大坂夏の陣」の布陣図には、真田信繁の陣の向いに越前勢の武将の名前が並んでいます。越前藩は大坂城に一番乗りを果たして信繁を討ち取り、恩賞として藩主の忠直が家康から茶壷を贈られました。
越前藩には、西尾が信繁を討ち取った際に用いたとされる短刀や信繁が使っていたと伝えられる血染めの采配なども残されています。西尾はその後、信繁を弔うために地蔵をつくったということで、信繁の冥福を祈るためだったと伝えられています。
「大坂夏の陣」の布陣図には、真田信繁の陣の向いに越前勢の武将の名前が並んでいます。越前藩は大坂城に一番乗りを果たして信繁を討ち取り、恩賞として藩主の忠直が家康から茶壷を贈られました。
越前藩には、西尾が信繁を討ち取った際に用いたとされる短刀や信繁が使っていたと伝えられる血染めの采配なども残されています。西尾はその後、信繁を弔うために地蔵をつくったということで、信繁の冥福を祈るためだったと伝えられています。
ソース:NHK ニュース