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東日本大震災6年 午後2時46分の祈り
2017-03-11 06:41:47

津波で大きな被害を受けた町を見渡すことができる宮城県石巻市の日和山では、地震が起きた午後2時46分に合わせて、多くの人が犠牲者を悼み、祈りをささげていました。
石巻市の日和山には午後2時を過ぎたころから次々に地元の人などが訪れ始めました。地震が起きた2時46分になると、サイレンが鳴る中、海の方に向かって手を合わせ、祈りをささげていました。
津波で自宅が全壊した石巻市の31歳の女性は「地元にいても薄れそうになりますが、忘れてはいけないことだと改めて感じました。幼稚園に勤めていたので、自分の家族よりも園児たちを守る日々でした。子どもたちには、震災が起きたことや自分の命を守る大切さを教えていきたいです」と話していました。
東松島市の34歳の男性は「当時は北海道にいましたが、東北に住む友人から話を聞いたり、報道で被災地の状況を見たりして、心がとても痛くなりました。同じ苦しみを味わうことがないように受け継がれていってほしいです」と話していました。
石巻市の日和山には午後2時を過ぎたころから次々に地元の人などが訪れ始めました。地震が起きた2時46分になると、サイレンが鳴る中、海の方に向かって手を合わせ、祈りをささげていました。
津波で自宅が全壊した石巻市の31歳の女性は「地元にいても薄れそうになりますが、忘れてはいけないことだと改めて感じました。幼稚園に勤めていたので、自分の家族よりも園児たちを守る日々でした。子どもたちには、震災が起きたことや自分の命を守る大切さを教えていきたいです」と話していました。
東松島市の34歳の男性は「当時は北海道にいましたが、東北に住む友人から話を聞いたり、報道で被災地の状況を見たりして、心がとても痛くなりました。同じ苦しみを味わうことがないように受け継がれていってほしいです」と話していました。
宮城 石巻市の日和山
津波で大きな被害を受けた町を見渡すことができる宮城県石巻市の日和山では、地震が起きた午後2時46分に合わせて、多くの人が犠牲者を悼み、祈りをささげていました。
石巻市の日和山には午後2時を過ぎたころから次々に地元の人などが訪れ始めました。地震が起きた2時46分になると、サイレンが鳴る中、海の方に向かって手を合わせ、祈りをささげていました。
津波で自宅が全壊した石巻市の31歳の女性は「地元にいても薄れそうになりますが、忘れてはいけないことだと改めて感じました。幼稚園に勤めていたので、自分の家族よりも園児たちを守る日々でした。子どもたちには、震災が起きたことや自分の命を守る大切さを教えていきたいです」と話していました。
東松島市の34歳の男性は「当時は北海道にいましたが、東北に住む友人から話を聞いたり、報道で被災地の状況を見たりして、心がとても痛くなりました。同じ苦しみを味わうことがないように受け継がれていってほしいです」と話していました。
石巻市の日和山には午後2時を過ぎたころから次々に地元の人などが訪れ始めました。地震が起きた2時46分になると、サイレンが鳴る中、海の方に向かって手を合わせ、祈りをささげていました。
津波で自宅が全壊した石巻市の31歳の女性は「地元にいても薄れそうになりますが、忘れてはいけないことだと改めて感じました。幼稚園に勤めていたので、自分の家族よりも園児たちを守る日々でした。子どもたちには、震災が起きたことや自分の命を守る大切さを教えていきたいです」と話していました。
東松島市の34歳の男性は「当時は北海道にいましたが、東北に住む友人から話を聞いたり、報道で被災地の状況を見たりして、心がとても痛くなりました。同じ苦しみを味わうことがないように受け継がれていってほしいです」と話していました。
宮城 南三陸町の防災庁舎
6年前の津波で43人が犠牲になったとされる宮城県南三陸町の防災対策庁舎では、遺族や地元の住民たちが集まり地震が発生した午後2時46分に合わせて静かに祈りをささげました。
南三陸町の防災対策庁舎は当時、町の災害対策本部が置かれた施設で、大津波に襲われ屋上に避難した職員など43人が犠牲になったとされています。庁舎は保存するかどうか時間をかけて議論するため、震災の発生から20年後まで県が管理することになっていて先月補修工事が終わったばかりです。
しかし周辺で復興工事が行われているため、道路を挟んだ場所に献花台が設けられていますが庁舎のそばには立ち入ることができません。
11日は午前中から遺族や地元の住民たちが庁舎を訪れていて、地震が発生した午後2時46分にはサイレンが鳴り響く中、大勢の人が手を合わせ亡くなった人たちに祈りをささげていました。
庁舎を訪れた三浦すゑ子さん(81)は町の職員だった息子の毅さんが庁舎から防災無線で避難を呼びかけ続けたあと行方不明になっています。
三浦さんは「この6年、息子のことを忘れたことはありません。どうして帰ってきてくれないのか悲しくてなりません。『家族そろって会いに来たよ、早く帰ってきてほしい』と庁舎に向かって声をかけました」と話していました。
南三陸町の防災対策庁舎は当時、町の災害対策本部が置かれた施設で、大津波に襲われ屋上に避難した職員など43人が犠牲になったとされています。庁舎は保存するかどうか時間をかけて議論するため、震災の発生から20年後まで県が管理することになっていて先月補修工事が終わったばかりです。
しかし周辺で復興工事が行われているため、道路を挟んだ場所に献花台が設けられていますが庁舎のそばには立ち入ることができません。
11日は午前中から遺族や地元の住民たちが庁舎を訪れていて、地震が発生した午後2時46分にはサイレンが鳴り響く中、大勢の人が手を合わせ亡くなった人たちに祈りをささげていました。
庁舎を訪れた三浦すゑ子さん(81)は町の職員だった息子の毅さんが庁舎から防災無線で避難を呼びかけ続けたあと行方不明になっています。
三浦さんは「この6年、息子のことを忘れたことはありません。どうして帰ってきてくれないのか悲しくてなりません。『家族そろって会いに来たよ、早く帰ってきてほしい』と庁舎に向かって声をかけました」と話していました。
避難指示解除予定の福島 浪江町
福島県浪江町では、放射線量が比較的高い帰還困難区域を除いて今月31日に避難指示が解除されることが決まり、住民たちが自宅に戻る準備のための宿泊をしていることから、浪江消防署が住民の安全を守るために火事などの異常がないかパトロールを続けています。
このうち町内の沿岸部にあり津波の被害を受けた請戸地区では、午後から3人の署員が消防車両に乗って見回りました。署員たちは、地区内にある仮設の防火水槽の水位が十分保たれているか確認したり、墓参りで訪れた人たちに火の扱いに注意するよう呼びかけるチラシを配ったりしていました。
そして、地震のあった午後2時46分になると消防車から降り、海に向かって帽子を取って頭を下げ、静かに黙とうしました。6年前、津波で浸水した建物から住民の救助にあたった浪江消防署の笹田丞警防係長は「当時のことを思い出し、もっと救助できたのではないかという思いがよみがえりました。これからも町を守るために頑張りたい」と話していました。
このうち町内の沿岸部にあり津波の被害を受けた請戸地区では、午後から3人の署員が消防車両に乗って見回りました。署員たちは、地区内にある仮設の防火水槽の水位が十分保たれているか確認したり、墓参りで訪れた人たちに火の扱いに注意するよう呼びかけるチラシを配ったりしていました。
そして、地震のあった午後2時46分になると消防車から降り、海に向かって帽子を取って頭を下げ、静かに黙とうしました。6年前、津波で浸水した建物から住民の救助にあたった浪江消防署の笹田丞警防係長は「当時のことを思い出し、もっと救助できたのではないかという思いがよみがえりました。これからも町を守るために頑張りたい」と話していました。
今月オープンの商店街でも 宮城 南三陸町
宮城県南三陸町に今月オープンした「南三陸さんさん商店街」でも、地震発生の午後2時46分に合わせて店主や訪れた客が祈りを捧げました。
午後2時46分の前後には商店街の一角に地元の人たちが集まり、花を手にしながら「ふるさと」や「花は咲く」などの歌を合唱しました。商店街でかまぼこ店を営む及川善祐さんは、「復興はまだまだ途中ですがみんなで精いっぱい前を向いて歩み続けることが犠牲になった人たちへの最大の鎮魂だと思います」と話していました。
また姉などを亡くした70代の女性は「みんなの魂が安らかに眠れるようにと手を合わせました。仮設住宅でみんなと仲良くしながら暮らしていきます」と話していました。
午後2時46分の前後には商店街の一角に地元の人たちが集まり、花を手にしながら「ふるさと」や「花は咲く」などの歌を合唱しました。商店街でかまぼこ店を営む及川善祐さんは、「復興はまだまだ途中ですがみんなで精いっぱい前を向いて歩み続けることが犠牲になった人たちへの最大の鎮魂だと思います」と話していました。
また姉などを亡くした70代の女性は「みんなの魂が安らかに眠れるようにと手を合わせました。仮設住宅でみんなと仲良くしながら暮らしていきます」と話していました。
風船飛ばし追悼 宮城 名取
名取市の閖上地区では地元の住民や遺族らおよそ400人が参加して震災の犠牲者を追悼する催しが開かれました。
会場にはハトの形をした風船が用意され、参加した人たちは「前を向いて生きていく」、「みんなのことを忘れない」などと思い思いのメッセージを書き込みました。
そして、地震が発生した午後2時46分に合わせて黙とうをしたあと空に向かって一斉に風船を飛ばして犠牲者を追悼しました。
震災で同級生4人を亡くした19歳の女性は「いまだに信じられずどこかで同級生たちと会える気がしてなりません。亡くなった人のためにも自分の将来やまちのためにしっかり頑張っていきたい」と話していました。
会場にはハトの形をした風船が用意され、参加した人たちは「前を向いて生きていく」、「みんなのことを忘れない」などと思い思いのメッセージを書き込みました。
そして、地震が発生した午後2時46分に合わせて黙とうをしたあと空に向かって一斉に風船を飛ばして犠牲者を追悼しました。
震災で同級生4人を亡くした19歳の女性は「いまだに信じられずどこかで同級生たちと会える気がしてなりません。亡くなった人のためにも自分の将来やまちのためにしっかり頑張っていきたい」と話していました。
ソーシャルメディアでも黙とう
ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアでも地震が起きた午後2時46分のあと、「黙とうしました」といったメッセージの投稿が相次ぎました。
ツイッターには、「職場で黙とうをささげました。あの瞬間のことは忘れられないなぁ・・」とか「スポーツセンターのプールで黙とうのアナウンスが入ったので1分間黙とう」、「黙とうのアナウンスとともに、空港内がサッと静かになったのが印象的でした」、「息子はまだ生まれる前で、よく分かってないけど一緒に目をつむって祈ってくれました」など、家庭や職場、外出先などさまざまな場所で黙とうしたことを報告する投稿が相次ぎました。
そのほか、6年前を思い出して、「あの日のこの時間は売り場にいて、不安そうなお客さんの対応と危険がないか確認作業に追われてたんだ。休憩に上がって、見たテレビに映ってた惨状も忘れてない」、「当時、小学生だったなー。卒業式練習してたっけ。先生の焦った顔や皆んなの顔忘れられない。それ以上に怖い恐ろしい思いをしてる人の事を思うと黙とうの時涙がこみ上げてきました」、「地震発生から約10日後に計画停電がありライフラインの重要さを痛感したことを忘れてません」、「あの日、TVの中で津波に飲み込まれていった沢山の未来。きっと私はあの光景を死ぬまで忘れられないと思います」など当時の体験を投稿する人も多くいました。
また、「次は15時20分、津波到達の時にも黙とうします。被災した方々、一刻も早い現地の復興を祈っています」など多くの人が被災地の復興を願うメッセージを寄せていました。
ツイッターには、「職場で黙とうをささげました。あの瞬間のことは忘れられないなぁ・・」とか「スポーツセンターのプールで黙とうのアナウンスが入ったので1分間黙とう」、「黙とうのアナウンスとともに、空港内がサッと静かになったのが印象的でした」、「息子はまだ生まれる前で、よく分かってないけど一緒に目をつむって祈ってくれました」など、家庭や職場、外出先などさまざまな場所で黙とうしたことを報告する投稿が相次ぎました。
そのほか、6年前を思い出して、「あの日のこの時間は売り場にいて、不安そうなお客さんの対応と危険がないか確認作業に追われてたんだ。休憩に上がって、見たテレビに映ってた惨状も忘れてない」、「当時、小学生だったなー。卒業式練習してたっけ。先生の焦った顔や皆んなの顔忘れられない。それ以上に怖い恐ろしい思いをしてる人の事を思うと黙とうの時涙がこみ上げてきました」、「地震発生から約10日後に計画停電がありライフラインの重要さを痛感したことを忘れてません」、「あの日、TVの中で津波に飲み込まれていった沢山の未来。きっと私はあの光景を死ぬまで忘れられないと思います」など当時の体験を投稿する人も多くいました。
また、「次は15時20分、津波到達の時にも黙とうします。被災した方々、一刻も早い現地の復興を祈っています」など多くの人が被災地の復興を願うメッセージを寄せていました。
ソース:NHK ニュース