これは、12日に開かれた文化庁の文化審議会で永岡文部科学大臣に答申されました。
新たに国宝に指定されるのは、富山県高岡市にある浄土真宗の寺院、勝興寺の本堂と大広間および式台です。
1795年に建てられた現在の本堂は、江戸時代後期を代表する寺院本堂といわれ、非常に規模が大きいのが特徴です。
浄土真宗が幾内から北陸へ拡大する際の拠点となったとされ、文化史的な意義が深いことも評価されました。
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国宝に勝興寺本堂など 重要文化財に名古屋テレビ塔など 指定へ
2022-10-12 08:06:47

江戸時代後期を代表する寺院本堂のひとつ、富山県高岡市にある勝興寺の本堂などが、新たに国宝に指定されることになりました。
国宝に指定へ 富山 高岡市の勝興寺の本堂など
重要文化財に指定へ 9件
一方、新たに重要文化財に指定されるのは9件です。
このうち、高さおよそ180メートルの「名古屋テレビ塔」は、日本初のテレビ放送用の集約電波鉄塔として1954年に完成し、名古屋の戦後復興のシンボルとされています。
歴史的な価値が高いと評価され、テレビ塔として初めて指定されることになりました。
新たな指定により、建造物の国宝や重要文化財への指定は、2557件となります。
このうち、高さおよそ180メートルの「名古屋テレビ塔」は、日本初のテレビ放送用の集約電波鉄塔として1954年に完成し、名古屋の戦後復興のシンボルとされています。
歴史的な価値が高いと評価され、テレビ塔として初めて指定されることになりました。
新たな指定により、建造物の国宝や重要文化財への指定は、2557件となります。
「名古屋テレビ塔」の歴史

「名古屋テレビ塔」、現在の「中部電力 MIRAI TOWER」が建てられたのは、日本でテレビの本放送が始まった翌年の昭和29年。
ラジオからテレビへという時代の流れの中、複数のテレビ局の電波を広い範囲に届ける日本で初めての「集約電波塔」として、東京タワーに先駆けて建設されました。
180メートルの高さは当時日本一を誇り、戦後まもなく整備された街の中心部を貫く大通り「100メートル道路」にそびえ立つ姿は、空襲で焼け野原となった名古屋の街の復興のシンボルとなりました。
地上90メートルに位置する展望台には当初から多くの人が観光に訪れ、来場者数は開業から10か月で100万人に上り、これまでに3500万人を超える人が訪れています。
展望台での“空中結婚式”や展望台までの階段の早登り競争などさまざまな催しも開かれ、平成元年からは塔をライトアップして街の夜景を彩ってきました。
名古屋テレビ塔は、開業から57年たった平成23年、テレビのアナログ放送の終了に伴って電波塔としての役割を終えましたが、おととし開業以来初の大規模改修を経てリニューアルオープンし、現在も名古屋のランドマークとして親しまれ続けています。
ラジオからテレビへという時代の流れの中、複数のテレビ局の電波を広い範囲に届ける日本で初めての「集約電波塔」として、東京タワーに先駆けて建設されました。
180メートルの高さは当時日本一を誇り、戦後まもなく整備された街の中心部を貫く大通り「100メートル道路」にそびえ立つ姿は、空襲で焼け野原となった名古屋の街の復興のシンボルとなりました。
地上90メートルに位置する展望台には当初から多くの人が観光に訪れ、来場者数は開業から10か月で100万人に上り、これまでに3500万人を超える人が訪れています。
展望台での“空中結婚式”や展望台までの階段の早登り競争などさまざまな催しも開かれ、平成元年からは塔をライトアップして街の夜景を彩ってきました。
名古屋テレビ塔は、開業から57年たった平成23年、テレビのアナログ放送の終了に伴って電波塔としての役割を終えましたが、おととし開業以来初の大規模改修を経てリニューアルオープンし、現在も名古屋のランドマークとして親しまれ続けています。
建築家 内藤多仲 戦後初のテレビ塔への挑戦

昭和28年、日本でテレビの本放送が始まると、NHKと民放各局の電波を束ねて発信する「集約電波塔」の建設が全国各地で計画され、その中で最初に建設されたのが「名古屋テレビ塔」でした。
設計を担ったのは建築家の内藤多仲で、戦前から各地にラジオ塔を完成させ、「塔博士」や「耐震構造の父」とも呼ばれた、日本の耐震構造設計の第一人者でした。
広い範囲に電波を届けるため設定された高さは、当時としては類を見ない180メートルで、その実現には、地震の強い揺れでも倒れない低い重心と台風の強風でも高層部がゆがまない強固な骨組みを両立した、災害に強い構造にする必要がありました。
前例のない挑戦に内藤が取り入れたのは、鉄骨で三角形を基本に骨組みを組む「トラス構造」と呼ばれる手法でした。
内藤は、日本で初めて揺れに強い耐震壁を生み出した知見と、各地でラジオ塔を設計してきた経験をもとに、「トラス構造」を巧みに使い、さらに塔の下層部に放送室を組み込んで全体の重心を低くすることで、先端のアンテナを安定させる、強いテレビ塔の設計を実現させました。
こうして完成した名古屋テレビ塔は、完成から5年後の昭和34年に東海地方を襲った伊勢湾台風の暴風にも耐えて情報を発信し続けました。
内藤多仲は、名古屋テレビ塔の完成を礎として、その4年後の昭和33年に東京タワーを完成させたほか、さっぽろテレビ塔や通天閣など、その土地土地を象徴するタワーを全国各地で生み出していきました。
内藤多仲に詳しい早稲田大学の山田眞名誉教授は「名古屋テレビ塔の建設は、鉄骨構造の草分けである内藤が、それまでに積み重ねてきた経験と知識を投入した仕事で、彼の集大成である東京タワーにつながる大きな仕事だった」と話しています。
設計を担ったのは建築家の内藤多仲で、戦前から各地にラジオ塔を完成させ、「塔博士」や「耐震構造の父」とも呼ばれた、日本の耐震構造設計の第一人者でした。
広い範囲に電波を届けるため設定された高さは、当時としては類を見ない180メートルで、その実現には、地震の強い揺れでも倒れない低い重心と台風の強風でも高層部がゆがまない強固な骨組みを両立した、災害に強い構造にする必要がありました。
前例のない挑戦に内藤が取り入れたのは、鉄骨で三角形を基本に骨組みを組む「トラス構造」と呼ばれる手法でした。
内藤は、日本で初めて揺れに強い耐震壁を生み出した知見と、各地でラジオ塔を設計してきた経験をもとに、「トラス構造」を巧みに使い、さらに塔の下層部に放送室を組み込んで全体の重心を低くすることで、先端のアンテナを安定させる、強いテレビ塔の設計を実現させました。
こうして完成した名古屋テレビ塔は、完成から5年後の昭和34年に東海地方を襲った伊勢湾台風の暴風にも耐えて情報を発信し続けました。
内藤多仲は、名古屋テレビ塔の完成を礎として、その4年後の昭和33年に東京タワーを完成させたほか、さっぽろテレビ塔や通天閣など、その土地土地を象徴するタワーを全国各地で生み出していきました。
内藤多仲に詳しい早稲田大学の山田眞名誉教授は「名古屋テレビ塔の建設は、鉄骨構造の草分けである内藤が、それまでに積み重ねてきた経験と知識を投入した仕事で、彼の集大成である東京タワーにつながる大きな仕事だった」と話しています。
「塔博士」「耐震構造の父」内藤多仲とは

内藤多仲は、日本の建築の歴史で鉄骨を用いた耐震構造設計の第一人者と位置づけられています。
「塔博士」や「耐震構造の父」とも呼ばれた内藤の名を広めたのは、揺れに強い「耐震壁」の考案と、東京タワーをはじめとしたテレビ塔の設計でした。
明治19年に山梨県に生まれ、東京帝国大学を卒業した内藤は、当時、最先端の建材だった鉄骨を使った構造設計を研究し、30代でアメリカに留学します。
そしてその後に「耐震壁」を考案するきっかけとなったのが、この留学の際の船旅で携えたトランクでした。
内藤は、旅で壊れたトランクに間仕切りがなかった一方、帰りの船の強い揺れに持ちこたえたトランクに間仕切りがあったことから、建物の内部に間仕切りのように耐震壁を設けることで構造を強化できると着想しました。
その後、実際に耐震壁を導入して設計した日本興業銀行の本店などが関東大震災の揺れで倒壊せず、内藤は耐震構造設計の第一人者としての地位を固めました。
その後、関東大震災後に始まったラジオ放送に合わせて鉄骨構造の知見を生かしてラジオ塔の設計に取り組み、全国各地に60基以上を完成させました。
戦後は各地で計画されたテレビ塔の建築を一手に担い、昭和29年の名古屋テレビ塔を皮切りに、さっぽろテレビ塔、東京タワーなど各地のタワーを生み出していきました。
「塔博士」や「耐震構造の父」とも呼ばれた内藤の名を広めたのは、揺れに強い「耐震壁」の考案と、東京タワーをはじめとしたテレビ塔の設計でした。
明治19年に山梨県に生まれ、東京帝国大学を卒業した内藤は、当時、最先端の建材だった鉄骨を使った構造設計を研究し、30代でアメリカに留学します。
そしてその後に「耐震壁」を考案するきっかけとなったのが、この留学の際の船旅で携えたトランクでした。
内藤は、旅で壊れたトランクに間仕切りがなかった一方、帰りの船の強い揺れに持ちこたえたトランクに間仕切りがあったことから、建物の内部に間仕切りのように耐震壁を設けることで構造を強化できると着想しました。
その後、実際に耐震壁を導入して設計した日本興業銀行の本店などが関東大震災の揺れで倒壊せず、内藤は耐震構造設計の第一人者としての地位を固めました。
その後、関東大震災後に始まったラジオ放送に合わせて鉄骨構造の知見を生かしてラジオ塔の設計に取り組み、全国各地に60基以上を完成させました。
戦後は各地で計画されたテレビ塔の建築を一手に担い、昭和29年の名古屋テレビ塔を皮切りに、さっぽろテレビ塔、東京タワーなど各地のタワーを生み出していきました。
ソース:NHK ニュース