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シベリア抑留 ロシアで発見の日本人文書 初開示
2019-12-26 09:32:13

終戦直後にシベリアに抑留された日本人が、収容所での生活や心情を克明につづった文章や絵画などがロシアで見つかり、先月モスクワを訪れた日本政府の調査団に開示されたことが分かりました。調査を行った厚生労働省は、こうした資料が開示されたのは1991年に調査が始まって以来初めてで、「貴重だ」としています。

シベリアに抑留された日本人に関する資料は、モスクワにある国立軍事古文書館で保管されていて、日本政府は、収容所での死亡記録などの資料について1991年から提供を求め、抑留中に死亡した人を特定する調査を続けています。
依然として1万5000人とされる死亡者が特定されていないことから、先月も厚生労働省の調査団が、軍事古文書館を訪れ、新たに見つかった170点ほどの資料を調査しました。
依然として1万5000人とされる死亡者が特定されていないことから、先月も厚生労働省の調査団が、軍事古文書館を訪れ、新たに見つかった170点ほどの資料を調査しました。

軍事古文書館によりますと、今回の資料の中には抑留されていた日本人が、収容所での生活や心情をつづった文章や絵画などが含まれていたということです。

こうした資料がNHKにも開示され、このうち極東のハバロフスクの収容所の日本人たちが1947年に編集した「捕虜生活記録」には、みずから金網を張って設営した収容所の中に入る屈辱感や、数日前まで元気だった仲間が厳しい寒さと強制労働で死亡し、凍った遺体を目撃した絶望感などが克明につづられています。
厚生労働省は、こうした記録が開示されたのは調査が始まって以来初めてで、「貴重だ」としていて、資料の写しを入手したうえで希望する遺族などが見つかれば提供するとしています。
厚生労働省は、こうした記録が開示されたのは調査が始まって以来初めてで、「貴重だ」としていて、資料の写しを入手したうえで希望する遺族などが見つかれば提供するとしています。
シベリア抑留とは
第2次世界大戦の終結直後、ソビエト軍は、旧満州、今の中国東北部や、かつての樺太・サハリンなどで60万人とも言われる元日本兵や民間の日本人を拘束しました。
その多くはシベリアや中央アジアなどソビエト各地や、モンゴルに送られ、ロシア語で「ラーゲリ」と呼ばれる収容所に抑留されました。
抑留された日本人は、厳しい寒さの中、鉄道や建物の建設や炭鉱の開拓など、過酷な労働を強いられ、飢えや病気などによりおよそ5万5000人が亡くなったとされています。
その多くはシベリアや中央アジアなどソビエト各地や、モンゴルに送られ、ロシア語で「ラーゲリ」と呼ばれる収容所に抑留されました。
抑留された日本人は、厳しい寒さの中、鉄道や建物の建設や炭鉱の開拓など、過酷な労働を強いられ、飢えや病気などによりおよそ5万5000人が亡くなったとされています。
開示された資料の内容は
開示された資料のうち「在ソ旧日本軍捕虜生活記録」は、極東ハバロフスクの第十六日本軍捕虜収容所の日本人たちが、1947年に編集したものです。収容所での生活の様子や心情などについて、短い文章を寄せる形で収められています。
「敗戦」というタイトルの文章には「特攻隊となり斬込隊となって散って行った戦友は草葉の蔭で泣いているだろう戦友よ どうすればよいのだ我等は?」と書かれています。日本が敗戦国となってソビエトに抑留された無念の気持ちを戦友に訴えたものとみられます。
また、「生まれてはじめて自分で金網を張り、その中に入るのだから大いに屈辱を感じた」と収容所生活が始まるのを前にした心情をつづったものや、「ああ、俺の命もこれで終わりか、父さん母さん、そして妹弟よ、元気でいつまでもいつまでも仲よく暮らして下さい。俺は名もなき山の中で死んでゆくでしょう。みんなさようなら」と、先の見えない収容所での生活を絶望視する気持ちも記されています。
ある日本人は、数日前まで元気だった仲間が厳しい寒さと強制労働が続く中で死亡し、凍った遺体を見た経験をつづるなど、つねに死と隣り合わせだった過酷な環境が克明に記されています。
さらに「餓鬼道」というタイトルのページには「一日一日の給養に耐えられず寄ると触ると食い物の話」と書かれています。
そして、ただでさえ少ない食事が炊事当番や分隊長などに取られて、結局まわってくる量はほんのわずかになってしまい、「最大の不快だ」と記されています。
一方、ロシア人の見張りにたばこをもらったエピソードもつづられ、「捕虜にあんな親切な人もいる」とロシア人との交流の一幕も記録されています。
別の資料にはトラックに乗せられて作業現場に向かう様子や、土地の造成を行う日本人たちの姿を描いた絵も掲載されています。
収容所の生活を撮影した写真を集めたアルバムでは、食事や医師による診察を受けている様子のほか、ソビエトの指導者スターリンの肖像画を描く日本人の姿もとらえられていて、当時、ソビエトが収容所の日本人に対してスターリンへの忠誠を誓わせ、社会主義を礼賛させたプロパガンダとみられる写真も残されています。
「敗戦」というタイトルの文章には「特攻隊となり斬込隊となって散って行った戦友は草葉の蔭で泣いているだろう戦友よ どうすればよいのだ我等は?」と書かれています。日本が敗戦国となってソビエトに抑留された無念の気持ちを戦友に訴えたものとみられます。
また、「生まれてはじめて自分で金網を張り、その中に入るのだから大いに屈辱を感じた」と収容所生活が始まるのを前にした心情をつづったものや、「ああ、俺の命もこれで終わりか、父さん母さん、そして妹弟よ、元気でいつまでもいつまでも仲よく暮らして下さい。俺は名もなき山の中で死んでゆくでしょう。みんなさようなら」と、先の見えない収容所での生活を絶望視する気持ちも記されています。
ある日本人は、数日前まで元気だった仲間が厳しい寒さと強制労働が続く中で死亡し、凍った遺体を見た経験をつづるなど、つねに死と隣り合わせだった過酷な環境が克明に記されています。
さらに「餓鬼道」というタイトルのページには「一日一日の給養に耐えられず寄ると触ると食い物の話」と書かれています。
そして、ただでさえ少ない食事が炊事当番や分隊長などに取られて、結局まわってくる量はほんのわずかになってしまい、「最大の不快だ」と記されています。
一方、ロシア人の見張りにたばこをもらったエピソードもつづられ、「捕虜にあんな親切な人もいる」とロシア人との交流の一幕も記録されています。
別の資料にはトラックに乗せられて作業現場に向かう様子や、土地の造成を行う日本人たちの姿を描いた絵も掲載されています。
収容所の生活を撮影した写真を集めたアルバムでは、食事や医師による診察を受けている様子のほか、ソビエトの指導者スターリンの肖像画を描く日本人の姿もとらえられていて、当時、ソビエトが収容所の日本人に対してスターリンへの忠誠を誓わせ、社会主義を礼賛させたプロパガンダとみられる写真も残されています。
ロシアの資料館 資料の公開を検討
ロシアの国立軍事古文書館は、ソビエト時代のおよそ740万点に上る資料を集めた、軍事関連ではロシア最大の資料館です。
保管されている資料の中には、第2次世界大戦後にシベリアに抑留された日本人や、ドイツ人など、外国人に関する膨大な資料も含まれています。
ロシアは、日本と1991年に結んだ協定に基づいて機密指定が解除されたタイミングなどに合わせて資料を開示し、写しを提供してきました。
開示されてきた資料は、収容所の名簿や死亡記録などの資料が多く、これまでに死亡したとみられる人のうち、およそ3万8000人の特定につながりました。
軍事古文書館のコロタエフ副館長は、日本人が記した文章などが含まれた資料を初めて開示した理由について、死亡者の特定を進めたい日本側の要望に応えるためだとしたうえで、「日本と資料研究の分野で協力できると思う」と述べました。
コロタエフ副館長は、こうした資料について「展覧会や出版、それに最新のデジタル技術でインターネットを通じて公表することも可能だ」として、何らかの形で公開することを検討していると明らかにしました。
保管されている資料の中には、第2次世界大戦後にシベリアに抑留された日本人や、ドイツ人など、外国人に関する膨大な資料も含まれています。
ロシアは、日本と1991年に結んだ協定に基づいて機密指定が解除されたタイミングなどに合わせて資料を開示し、写しを提供してきました。
開示されてきた資料は、収容所の名簿や死亡記録などの資料が多く、これまでに死亡したとみられる人のうち、およそ3万8000人の特定につながりました。
軍事古文書館のコロタエフ副館長は、日本人が記した文章などが含まれた資料を初めて開示した理由について、死亡者の特定を進めたい日本側の要望に応えるためだとしたうえで、「日本と資料研究の分野で協力できると思う」と述べました。
コロタエフ副館長は、こうした資料について「展覧会や出版、それに最新のデジタル技術でインターネットを通じて公表することも可能だ」として、何らかの形で公開することを検討していると明らかにしました。
ソース:NHK ニュース