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聖火に思いを込めて ランナーたちの思い
2020-01-19 07:32:52

3月26日、福島県からスタートする東京オリンピックの聖火リレー。
聖火は約4か月、121日間をかけて全国の858の市区町村をまわります。
ランナーに選ばれた人たちは、ざまざまな思いを胸に聖火リレーに臨もうとしています。
聖火は約4か月、121日間をかけて全国の858の市区町村をまわります。
ランナーに選ばれた人たちは、ざまざまな思いを胸に聖火リレーに臨もうとしています。
『復興へ進む被災地の姿を届けたい』~岩手~
東日本大震災の被災地、岩手県宮古市の中学2年生、本多美紀さん。父親の勧めで聖火ランナーに応募し、去年12月、内定通知を受け取りました。

「最初はすごいびっくりしていて、でもやっぱりこのようなチャンスは二度とないと思うので、すごくうれしかったです」
父親の政彦さんは、“復興”がテーマの大会だからこそ聖火ランナーに応募するよう勧めたと言います。

「今回復興がテーマというのもあるので、やっぱり震災のとき本当に彼女は小さかったんですけど、お世話になった方々がいっぱいいらっしゃるので、そういう人たちにこんなに大きくなったよというのをぜひ見せながら走ってもらえたらいいかなと思います」
“つらい思いはしなかった”
震災当時、5歳だった本多さん。
家族と自宅で過ごしていたところを揺れに襲われ、近くの高台にある神社に避難しました。
そこで目の当たりにしたのは、ごう音とともに真っ黒な津波に飲み込まれていく宮古の街でした。
その光景は、今も脳裏に焼き付いていると言います。
家族と自宅で過ごしていたところを揺れに襲われ、近くの高台にある神社に避難しました。
そこで目の当たりにしたのは、ごう音とともに真っ黒な津波に飲み込まれていく宮古の街でした。
その光景は、今も脳裏に焼き付いていると言います。

「津波で流されたガレキとかゴミとか、いろいろな車とかも散らかっていたというのは覚えています」

家族は避難して無事でしたが、自宅は全壊。
近くの小学校での避難生活は2か月近く続いたといいますが、当時の心情を聞いてみると、意外な答えが返ってきました。
「避難所の生活では、特に寂しいとか、つらいと思うことはありませんでした」
近くの小学校での避難生活は2か月近く続いたといいますが、当時の心情を聞いてみると、意外な答えが返ってきました。
「避難所の生活では、特に寂しいとか、つらいと思うことはありませんでした」

父親の政彦さんが当時の写真を見せてくれました。
それは、幼い本多さんが、同じように避難生活を送る人に、お手玉で遊んでもらっている様子を撮影したものでした。
被災者たちは、それぞれが自宅を失い心身ともに疲れ果てた状況にもかかわらず、互いに支え合いながら避難所で生活を続けていたのです。
いま中学生になった本多さんは、避難所で寄り添い合って暮らした宮古の人たちに、幼かった頃にはなかった感謝の気持ちを持つようになったと言います。
それは、幼い本多さんが、同じように避難生活を送る人に、お手玉で遊んでもらっている様子を撮影したものでした。
被災者たちは、それぞれが自宅を失い心身ともに疲れ果てた状況にもかかわらず、互いに支え合いながら避難所で生活を続けていたのです。
いま中学生になった本多さんは、避難所で寄り添い合って暮らした宮古の人たちに、幼かった頃にはなかった感謝の気持ちを持つようになったと言います。

「いろいろな人たちにお手玉教えてもらったり、折り紙を一緒に折ったりとか一緒に遊んでもらったから、つらかったという記憶はなく、楽しいという記憶のほうが多く残っています。いま振り返ると、感謝の気持ちでいっぱいです」
大好きだった祖父の死
それでも長引く避難生活では、悲しい出来事も少なくありませんでした。
避難所で祖父の緋佐志さん(当時80)が寝たきりとなってしまい、震災から4か月後に亡くなってしまったのです。
避難所で祖父の緋佐志さん(当時80)が寝たきりとなってしまい、震災から4か月後に亡くなってしまったのです。

祖父のひざの上で抱いてもらいながら、おしゃべりをするのが大好きだったという本多さん。震災で命を落とした祖父に、自身の成長した姿を見せたいと思い続けていました。
「ふだんのことについてでもいいし、何でもいいのですが、大きくなった今、おじいちゃんと話をしてみたいと思っていました。こんなに大きくなって、元気に活動しているのを見せられたらいいと思います」
「ふだんのことについてでもいいし、何でもいいのですが、大きくなった今、おじいちゃんと話をしてみたいと思っていました。こんなに大きくなって、元気に活動しているのを見せられたらいいと思います」
支えてくれた人たちへ 恩返し

先月、本多さんは、地元宮古市の聖火リレーコースを歩いて回りました。
津波で被災し、今は取り壊しが決まっている旧市役所の庁舎。
同じように津波で被災した道の駅は、再建後も家族でたびたび訪れた場所で、そこで幼かった本多さんは、いつも両親にアイスクリームをねだったといいます。
震災の傷痕や街の復興の様子を伝える宮古市のコースは、本多さんにとっても震災後の9年の成長が刻まれた思い出の場所ばかりでした。
津波で被災し、今は取り壊しが決まっている旧市役所の庁舎。
同じように津波で被災した道の駅は、再建後も家族でたびたび訪れた場所で、そこで幼かった本多さんは、いつも両親にアイスクリームをねだったといいます。
震災の傷痕や街の復興の様子を伝える宮古市のコースは、本多さんにとっても震災後の9年の成長が刻まれた思い出の場所ばかりでした。
本多さんがどのコースを担当するかはまだ決まっていませんが、震災の被害にあいながらも、復興に向かって進んできたまちの様子を世界に発信したいと言います。

「被害を受けても前向きに復興していく姿とか、そういうところが宮古のよさだと思います。宮古の道とか建物も変わっていくとは思うんですけど、そういったよさは変わらないでほしいし、ほかの人たちにも宮古のよさを知ってほしいと思います」
東日本大震災の発生からまもなく9年。”復興”はまだ道半ばですが、本多さんは、支えてくれた人への感謝や亡くなった人への鎮魂の思いも胸に走りたいと考えています。
東日本大震災の発生からまもなく9年。”復興”はまだ道半ばですが、本多さんは、支えてくれた人への感謝や亡くなった人への鎮魂の思いも胸に走りたいと考えています。

「さまざまな方に支えてもらいながらここまで成長できたので、誇りを持って聖火ランナーとして走っていきたいと思います」
(取材:盛岡放送局宮古支局 記者 下京翔一朗)
(取材:盛岡放送局宮古支局 記者 下京翔一朗)
『伝えたい“オブリガーダ~ありがとう~”』~群馬~

群馬県の聖火ランナーに選ばれた野口ブルーナさん、21歳。
野口さんは、日系ブラジル人の女性で、4歳の時に来日。群馬県大泉町で育ちました。
大泉町は人口およそ4万人で、その1割はブラジル人。町にはブラジル料理店やスーパーなどが立ち並ぶ「ブラジルタウン」があります。
野口さんは、町の臨時職員。ポルトガル語の通訳として働いています。英語も話せるので「トリリンガル」です。
東京オリンピックの聖火ランナーを務めることが決まり「すごいわくわくしています。選ばれたことがうれしかったし、大泉代表として特別な走りがしたい」と笑顔で話してくれた野口さん。
彼女の目には、強い意志のようなものを感じました。
野口さんは、日系ブラジル人の女性で、4歳の時に来日。群馬県大泉町で育ちました。
大泉町は人口およそ4万人で、その1割はブラジル人。町にはブラジル料理店やスーパーなどが立ち並ぶ「ブラジルタウン」があります。
野口さんは、町の臨時職員。ポルトガル語の通訳として働いています。英語も話せるので「トリリンガル」です。
東京オリンピックの聖火ランナーを務めることが決まり「すごいわくわくしています。選ばれたことがうれしかったし、大泉代表として特別な走りがしたい」と笑顔で話してくれた野口さん。
彼女の目には、強い意志のようなものを感じました。
笑顔の裏に

野口さんは、ブラジルで生まれ、親の仕事のために来日しました。
ひいおじいさんが、ブラジルに渡り、親の代までブラジルで育ったそうです。
大泉町に移り住んだあとも、自宅では家族とポルトガル語で話し、食事もブラジル料理でした。
地元の小学校に通いましたが、ことばや文化の違いに戸惑いました。
ひいおじいさんが、ブラジルに渡り、親の代までブラジルで育ったそうです。
大泉町に移り住んだあとも、自宅では家族とポルトガル語で話し、食事もブラジル料理でした。
地元の小学校に通いましたが、ことばや文化の違いに戸惑いました。

「学校で名前がカタカナということだけでいじめられたり、いじられたりして結構苦労しました。親も日本語があまり得意ではない中で、生活している姿を見てきました」
“たくさんのありがとう”
そうした中でも、野口さんは笑顔を絶やしませんでした。
高校時代は、バスケットボール部に所属し、レギュラーとして全国大会に出場しました。
3年間、寮生活を送っていた野口さんにとって、チームメイトたちのサポートは欠かせませんでした。
部活動の卒業文集に書いたことばは「たくさんのありがとう」。
支えてくれた日本の人たちへの思いを記しました。
高校時代は、バスケットボール部に所属し、レギュラーとして全国大会に出場しました。
3年間、寮生活を送っていた野口さんにとって、チームメイトたちのサポートは欠かせませんでした。
部活動の卒業文集に書いたことばは「たくさんのありがとう」。
支えてくれた日本の人たちへの思いを記しました。

「高校生活の中で、どんなにつらい時でも本当に支えてくれたんです。どこに行っても絶対に助けてくれる人が必ずいて、私は恵まれています」
育ててくれた日本へ、感謝を伝えたい。
野口さんは群馬県が募集した一般の聖火ランナーにエントリーし、130倍の倍率の中、大泉町からただ一人選ばれました。
野口さんは群馬県が募集した一般の聖火ランナーにエントリーし、130倍の倍率の中、大泉町からただ一人選ばれました。
被災地に届け!
野口さんは、去年5月まで1年半、福島県など東日本大震災の被災地で傾聴ボランティアなどの活動をしながら、多くの被災者と接してきました。
聖火ランナーに選ばれたことを、SNSで報告をすると「素晴らしい!」「応援してるよ!」といった、たくさんの温かいメッセージが送られてきたと言います。
聖火ランナーに選ばれたことを、SNSで報告をすると「素晴らしい!」「応援してるよ!」といった、たくさんの温かいメッセージが送られてきたと言います。

「私と同じくらいの年齢の娘さんを亡くしたとか、おじいちゃん、おばあちゃんを亡くしたとかいろんな話を聞きました。私は自分ができることは少ないけれど、聖火リレーの時に、笑顔で元気に走ることで、被災された方々に少しでも元気になってほしい」
一歩一歩に思い込めて

聖火ランナーに選ばれ、野口さんは、職場までの行き帰りや、地元の体育館などで毎日3キロ近くを走り込んでいます。
聖火ランナーが走る距離は、わずか200メートル。
その200mの走りの中で伝えたい思いがあります。
聖火ランナーが走る距離は、わずか200メートル。
その200mの走りの中で伝えたい思いがあります。

「スポーツは人に感動を与えることができるんですよ。自分の顔つきとか真剣な目とかに出ると思うんです。自分が日系ブラジル人として日本で育ってきたという姿を見せるよい機会ですし、感謝の気持ちを示したいというのがあります。皆さんを元気づけるような走りがしたいです」
短い距離でも、野口さんにとっては「唯一無二」の舞台。
その一歩一歩に「日本への感謝」そして「被災地からの思い」を刻もうとしていると感じました。
(取材:前橋放送局 記者 渡邉亜沙)
その一歩一歩に「日本への感謝」そして「被災地からの思い」を刻もうとしていると感じました。
(取材:前橋放送局 記者 渡邉亜沙)
『幻のオリンピック代表の思い』~宮城~

宮城県気仙沼市に住む千田健一さん(63)。
1980年のモスクワオリンピックの日本代表に選ばれたフェンシングの選手でした。当時の千田さんにとって、オリンピックは「現役時代の1番大きな目標」だったと言います。
1980年のモスクワオリンピックの日本代表に選ばれたフェンシングの選手でした。当時の千田さんにとって、オリンピックは「現役時代の1番大きな目標」だったと言います。

「小学5年からフェンシングを続けて、恩師からも『目標はオリンピック選手だぞ』とずっと言われていたので、夢がかなった時は飛び上がるほどうれしかったです。恩師は厳しい方でしたが、初めて褒められたのがオリンピックの代表に選ばれた時でした」

しかし、千田さんがオリンピックの舞台に立つことはありませんでした。
当時の東西冷戦を背景に、日本が大会への参加をボイコットしたためです。手に入れたのは、日本代表の認定証だけでした。
当時の東西冷戦を背景に、日本が大会への参加をボイコットしたためです。手に入れたのは、日本代表の認定証だけでした。
気仙沼から世界へ
4年後に雪辱を…という思いに駆られましたが、千田さんには時間がありませんでした。「次の夢」が待っていたのです。
それは、ふるさとの宮城で教師になること。
受験資格に年齢制限があったため、千田さんはオリンピックを諦めて高校の教師になることを選んだのです。
それは、ふるさとの宮城で教師になること。
受験資格に年齢制限があったため、千田さんはオリンピックを諦めて高校の教師になることを選んだのです。

自分が味わった悔しさもバネに後進の育成にまい進した千田さん。
まな弟子たちを何度も高校日本一に導きました。
まな弟子たちを何度も高校日本一に導きました。

「世界で飛躍できる選手を、気仙沼から育てていきたいという思いはありました。生徒たちが一緒に努力してくれて日本の頂点に立てましたし、全盛期で教師へ転身したことは決して間違った道ではなかったと思っています」
ふるさとを襲った震災
“ボイコット”の苦しみを乗り越えた千田さんを、再び大きな苦難が襲いました。2011年3月11日の東日本大震災です。
気仙沼市も壊滅的な被害を受け、当時、教頭を務めていた気仙沼高校にもおよそ1000人が避難してきたといいます。
千田さんは、家から高校に通えなくなった生徒の宿泊場所の確保や、体育館で避難生活をする人たちの世話などに奔走しました。
気仙沼市も壊滅的な被害を受け、当時、教頭を務めていた気仙沼高校にもおよそ1000人が避難してきたといいます。
千田さんは、家から高校に通えなくなった生徒の宿泊場所の確保や、体育館で避難生活をする人たちの世話などに奔走しました。

「残されたものは、前を向いて傷ついた気仙沼を立て直す。それしか方法はありません。生徒と一緒に一生懸命前を向いて、とにかく自分のできることを精いっぱいやろうと。生徒の頑張りもあって、乗り越えることができたと思います」
気仙沼を勇気づけた銀メダル
震災から1年半後、2012年のロンドンオリンピック。
気仙沼を勇気づけるニュースが飛び込んで来ました。
千田さんの教え子であり、息子である健太さんが出場。
フェンシングの男子フルーレ団体で、日本が世界の強豪を次々と破って銀メダルを獲得したのです。
気仙沼を勇気づけるニュースが飛び込んで来ました。
千田さんの教え子であり、息子である健太さんが出場。
フェンシングの男子フルーレ団体で、日本が世界の強豪を次々と破って銀メダルを獲得したのです。

健太さんをはじめ選手たちは、帰国後すぐに被災地の気仙沼を慰問しました。千田さんはこの時、“スポーツの力”を改めて感じたと言います。

「市民が喜んでくれて、気仙沼全体が盛り上がりました。スポーツは、いろいろな人を幸せにし、勇気と元気をくれます。スポーツの力は大きいなと思いました」
スポーツの力と気仙沼の今を発信したい

千田さんは宮城県内を走る東京大会の聖火ランナーに選ばれました。
聖火リレーを通じて、震災から9年となる今も復興の途上にある被災地の現状を知ってもらうとともに、世界各地から寄せられた支援に対する感謝と、世界を1つにするスポーツのすばらしさを伝えたいと考えています。
出場がかなわなかったモスクワ大会から40年。
千田さんは形は違えども聖火ランナーとして“夢の舞台”に立ちます。
(取材:仙台放送局 記者 川田陽介)
聖火リレーを通じて、震災から9年となる今も復興の途上にある被災地の現状を知ってもらうとともに、世界各地から寄せられた支援に対する感謝と、世界を1つにするスポーツのすばらしさを伝えたいと考えています。
出場がかなわなかったモスクワ大会から40年。
千田さんは形は違えども聖火ランナーとして“夢の舞台”に立ちます。
(取材:仙台放送局 記者 川田陽介)
ソース:NHK ニュース