夏場所は22日の14日目に前頭8枚目の遠藤が大関 照ノ富士を破り、照ノ富士が2敗、遠藤と大関 貴景勝が星の差1つの3敗で追う展開でした。
千秋楽のきょうは、まず結び前に遠藤が大関 正代に敗れて4敗目を喫し、結びの一番では照ノ富士が貴景勝に敗れ、12勝3敗で大関2人が並びました。
優勝決定戦では、照ノ富士が貴景勝にはたき込みで勝って、2場所連続4回目の優勝を果たしました。
大関に復帰した場所での優勝は昭和以降では初めてで、2場所連続での優勝は平成30年の春場所と夏場所を制した横綱 鶴竜以来です。
大関復帰1場所目の照ノ富士は、今場所、大きな体を生かして相手を組み止め前に出る盤石の相撲で初日から10連勝しましたが、11日目に平幕の妙義龍との対戦でまげをつかんで引っ張る反則負けで、初黒星を喫しました。
翌12日目は過去1勝4敗と合い口の悪い、平幕の阿武咲との対戦でしたが、前まわしをつかむ万全の相撲で退けて連敗せず、14日目に遠藤に敗れたものの最後まで集中力を保ち続け精神面も充実していました。
白鵬の休場で横綱不在となった今場所は、大関に復帰した照ノ富士が番付どおりの力を見せつけました。
照ノ富士は土俵下で行われた優勝インタビューで「うれしい。優勝決定戦になると、いつも負けてきたので一生懸命頑張ってよかった」と喜びを語りました。
本割で貴景勝に敗れたあと、優勝決定戦に向かう際の心境については「いつもどおり、やってきたことを信じて土俵に上がった。それだけです」と話していました。
また大関としての初めての優勝について「そんなに変わった感覚はないがいつもよりうれしい感じはする」と率直な心境を話しました。
次が「綱とり」の場所になることについては「横綱になりたいからと言ってなれるわけではないからこそ経験してみたい。今までどおりやってもだめだと思うので、これまで以上に努力していきたい」と力を込めました。
その一方で「横綱になれたらいいが、なれなかったらなれなかったでいい」とも話し、いさぎよい言い回しに会場からは笑い声も聞こえていました。
日本相撲協会の八角理事長は、本割で敗れたものの優勝決定戦を制した照ノ富士について「相手の出足を止めたところがよかった。足を送っていたし集中力があった。こんなに苦しむとは思わなかっただろう。大したものだ」と高く評価しました。
また、この1年、たびたび優勝を争ってきた照ノ富士と貴景勝について「この2人が今、引っ張っている感じがする」としたうえで「2人ともよくやりました」と横綱不在の場所で責任を果たした二大関をねぎらっていました。
Show Furigana
大相撲夏場所 照ノ富士が優勝 貴景勝との決定戦制し2場所連続
2021-05-23 09:45:58

大相撲夏場所は千秋楽の23日、大関・照ノ富士が大関・貴景勝との優勝決定戦を制して2場所連続4回目の優勝を果たしました。
大関に復帰した場所での優勝は、昭和以降では初めてです。
大関に復帰した場所での優勝は、昭和以降では初めてです。
2場所連続優勝は平成30年の鶴竜以来

来場所は“綱とり”の場所に

日本相撲協会の伊勢ヶ濱審判部長は、大関復帰の場所で12勝3敗の成績で優勝した照ノ富士について、来場所が横綱昇進に挑む場所になるかと問われると「やっぱり1年で3回優勝しているし、2場所連続の優勝ですからね。来場所、優勝や準じる成績を残せばそういう話も出てきます」と話し、来場所は、照ノ富士が「綱とり」に挑む場所になるとの見解を示しました。
照ノ富士 一時幕下以下に陥落も“復活”

照ノ富士はモンゴル出身の29歳。来日後は、強豪の鳥取城北高校に入学しその後、間垣部屋に入門しました。
平成23年5月の技量審査場所で若三勝のしこ名で初土俵を踏み、間垣部屋の閉鎖に伴って伊勢ヶ濱部屋に移籍したあとしこ名を今の照ノ富士に改めました。
体重およそ180キロの恵まれた体格を生かした力強い四つ相撲でぐんぐん番付を上げ、平成26年の春場所に新入幕を果たし、関脇だった平成27年夏場所に12勝3敗で初優勝しました。
初土俵から25場所目での優勝は、年6場所制となった昭和33年以降、幕下付け出しの力士を除いて、歴代3位のスピード記録で場所後に大関に昇進し横綱候補として期待されました。
しかし、ひざのケガや糖尿病などから稽古のできない状態となり、平成29年名古屋場所から4場所連続で休場し、その年の九州場所に2年間務めた大関の地位から陥落しました。
さらに平成30年夏場所からも5場所連続で休場し、平成31年の春場所には序二段にまで番付を下げました。大関経験者が幕下以下に陥落するのは昭和以降では初めてのことで、一時は引退も考えました。
それでも師匠の伊勢ヶ濱親方に説得されて思いとどまり、けがや病気の回復に伴って少しずつ稽古を再開し、再び番付を上げていきました。
前頭17枚目「幕尻」で幕内に復帰した去年7月場所には、およそ5年ぶりとなる2回目の優勝を果たして復活を強く印象づけました。
ことし3月の春場所では12勝を挙げて3回目の優勝を果たし、21場所ぶりに大関に復帰していました。
平成23年5月の技量審査場所で若三勝のしこ名で初土俵を踏み、間垣部屋の閉鎖に伴って伊勢ヶ濱部屋に移籍したあとしこ名を今の照ノ富士に改めました。
体重およそ180キロの恵まれた体格を生かした力強い四つ相撲でぐんぐん番付を上げ、平成26年の春場所に新入幕を果たし、関脇だった平成27年夏場所に12勝3敗で初優勝しました。
初土俵から25場所目での優勝は、年6場所制となった昭和33年以降、幕下付け出しの力士を除いて、歴代3位のスピード記録で場所後に大関に昇進し横綱候補として期待されました。
しかし、ひざのケガや糖尿病などから稽古のできない状態となり、平成29年名古屋場所から4場所連続で休場し、その年の九州場所に2年間務めた大関の地位から陥落しました。
さらに平成30年夏場所からも5場所連続で休場し、平成31年の春場所には序二段にまで番付を下げました。大関経験者が幕下以下に陥落するのは昭和以降では初めてのことで、一時は引退も考えました。
それでも師匠の伊勢ヶ濱親方に説得されて思いとどまり、けがや病気の回復に伴って少しずつ稽古を再開し、再び番付を上げていきました。
前頭17枚目「幕尻」で幕内に復帰した去年7月場所には、およそ5年ぶりとなる2回目の優勝を果たして復活を強く印象づけました。
ことし3月の春場所では12勝を挙げて3回目の優勝を果たし、21場所ぶりに大関に復帰していました。
ソース:NHK ニュース