橋田さんは大正14年に現在の韓国 ソウルで生まれ、終戦後の昭和24年に映画会社の「松竹」に入社したあと、フリーの脚本家としてテレビドラマの人気作品を数多く手がけました。
民放のテレビドラマ「愛と死をみつめて」などの作品で知られるようになり「おんな太閤記」や「春日局」などのNHK大河ドラマも担当しました。
Show Furigana
脚本家の橋田壽賀子さん死去「おしん」など手がける 95歳
2021-04-05 10:26:37

「おしん」や「渡る世間は鬼ばかり」など、数多くのテレビドラマを手がけ、文化勲章を受章した脚本家の橋田壽賀子さんが4日、急性リンパ腫のため亡くなりました。95歳でした。


中でも、昭和58年からに59年にかけてNHKで放送された連続テレビ小説「おしん」は、明治から昭和にかけて力強く生きる女性を描き、国民的な人気ドラマとして高い評価を受けただけでなく、アジアや中東、アフリカを中心に60以上の国や地域で放送され、世界的なブームを巻き起こしました。
また、民放のドラマ「渡る世間は鬼ばかり」は、平成2年の放送開始から500回以上放送される長寿番組となり、ありふれた日常の暮らしを描きながら社会で起きている現象を織り込み、辛口ホームドラマの代表作として高く評価されています。
橋田さんは、平成27年に文化功労者に選ばれ、令和2年には文化勲章を受章しています。
橋田文化財団によりますと、橋田さんは急性リンパ腫のため、4日に熱海市内の自宅で亡くなりました。95歳でした。
また、民放のドラマ「渡る世間は鬼ばかり」は、平成2年の放送開始から500回以上放送される長寿番組となり、ありふれた日常の暮らしを描きながら社会で起きている現象を織り込み、辛口ホームドラマの代表作として高く評価されています。
橋田さんは、平成27年に文化功労者に選ばれ、令和2年には文化勲章を受章しています。
橋田文化財団によりますと、橋田さんは急性リンパ腫のため、4日に熱海市内の自宅で亡くなりました。95歳でした。
泉ピン子さん「最後はずっとそばにいられた」

橋田壽賀子さんが亡くなったことを受けて、橋田さんのドラマに数多く出演してきた俳優の泉ピン子さんは次のようなコメントを発表しました。
「きのう意識がなくなったとき 『ママ』って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いたんです それが最後でした。クルーズ旅行に行くとき お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せて、私がお化粧をしてあげて、旅立ちました。橋田さんは『悲しまなくていい。千の風になっているんだから。あなたの周りにいるから』といつも言っていました。『でも、私が先に逝くとは限らないけど』と茶目っ気たっぷりで付け加えたりして。ですから最後は『千の風になって』をかけて送りました。今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました。私も熱海で暮らすようになって、最後はずっとそばにいられたから 熱海に越してきた意味があったと思います」
「きのう意識がなくなったとき 『ママ』って呼ぶ私の声が聞こえたのか、最後に目を見開いたんです それが最後でした。クルーズ旅行に行くとき お正月に着ていたお気に入りのドレスと、橋田文化財団を設立したときに作った松竹梅の思い出のドレスを着せて、私がお化粧をしてあげて、旅立ちました。橋田さんは『悲しまなくていい。千の風になっているんだから。あなたの周りにいるから』といつも言っていました。『でも、私が先に逝くとは限らないけど』と茶目っ気たっぷりで付け加えたりして。ですから最後は『千の風になって』をかけて送りました。今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました。私も熱海で暮らすようになって、最後はずっとそばにいられたから 熱海に越してきた意味があったと思います」
石井ふく子さん「こんなに急だなんて 悔しくて」
橋田さんが脚本を務めたドラマ「渡る世間は鬼ばかり」のプロデューサーの石井ふく子さんは「橋田さんとは60年のお付き合いです。年中けんかをしたり、相談したり、家族のように付き合ってきました。1日電話をしないと『どうしたの?』と心配されることもありました。思い出がありすぎて何も言えません。こんなに急だなんて 悔しくて、なんと言っていいかわかりません。『あなた1人でどこに行ったのよ』という思いでいっぱいです。橋田さんは現在のコロナ禍の状況を見て、そこで感じた家族の形を書きたいとおっしゃっていました。同時に『私はいつも1人だと思っていたけれど、あなたたちがそばにいてくれたのね』とおっしゃって。私は『今更、なにを言ってるのよ』と返しましたけれど。お互いに元気でいようねって話していたところでした。今、私の隣りに笑って私を見ている遺影があります。まだ、橋田さんがこの世からいなくなったなんて考えられません」とコメントしました。
伊東四朗さん「『おしん』父親役は役者人生に画期的な事」

橋田さんが手がけたNHKの連続テレビ小説「おしん」で父親役を務めた、俳優の伊東四朗さんは「あの国民的番組『おしん』の父親役に呼んでいただいたのは、その後の役者人生にとって画期的な事でした。橋田先生有り難う御座いました、ゆっくりお休み下さい。合掌」とコメントを出しました。
植草克秀さん「まだ嘘ではないかと思う気持ち」
橋田さんが手がけた「渡る世間は鬼ばかり」に出演していた俳優の植草克秀さんはツイッターに次のようなコメントを投稿しました。
「あまりの急なことに今はまだ嘘ではないかと思う気持ちです。渡る世間は鬼ばかりは自分の人生の中でもとても大きな仕事で、先生と一緒にやってこれて本当に感謝しかありません。自分の中ではいつも元気な橋田先生のイメージです。すいません、ショックでまだうまくまとめられません」
「あまりの急なことに今はまだ嘘ではないかと思う気持ちです。渡る世間は鬼ばかりは自分の人生の中でもとても大きな仕事で、先生と一緒にやってこれて本当に感謝しかありません。自分の中ではいつも元気な橋田先生のイメージです。すいません、ショックでまだうまくまとめられません」
過去には中国の当時の国家主席も「おしん」に言及
橋田壽賀子さんが手がけたNHKの連続テレビ小説「おしん」は、中国でも1985年に初めて、国営の中国中央テレビで放送され、大ヒットしました。
主人公のおしんは「阿信」と訳され、どんな苦境に直面しても強く生きる姿が中国人の心をつかみました。
過去には当時、国家主席だった胡錦涛氏が、日本訪問を前にした2008年、メディアとの会見で日本人に対する印象を聞かれた際に「おしん」について言及し、「主人公が強い信念で物事を成し遂げていく精神に深い印象を持った」と話していました。
主人公のおしんは「阿信」と訳され、どんな苦境に直面しても強く生きる姿が中国人の心をつかみました。
過去には当時、国家主席だった胡錦涛氏が、日本訪問を前にした2008年、メディアとの会見で日本人に対する印象を聞かれた際に「おしん」について言及し、「主人公が強い信念で物事を成し遂げていく精神に深い印象を持った」と話していました。
「おしん」ロケ地の山形で悼む声
NHKの連続テレビ小説「おしん」の舞台となった山形県内では死去を悼む声が聞かれました。
このうちロケ地の1つ、山形県酒田市の男性は「びっくりしました。『おしん』は酒田にとって特別で、亡くなったといっても実感がわきません」と話していました。
また別の女性は「『おしん』が放送された当時は会社に勤めていて、みんなで休憩室で見ていたのを覚えています。『おしん』といえば酒田ですから、いつまでも記憶に残ってほしいドラマです。残念です」と話していました。
このうちロケ地の1つ、山形県酒田市の男性は「びっくりしました。『おしん』は酒田にとって特別で、亡くなったといっても実感がわきません」と話していました。
また別の女性は「『おしん』が放送された当時は会社に勤めていて、みんなで休憩室で見ていたのを覚えています。『おしん』といえば酒田ですから、いつまでも記憶に残ってほしいドラマです。残念です」と話していました。
橋田さんが育った大阪の街の人は
大阪 堺で育った橋田さんが亡くなったことについて、JR大阪駅前では惜しむ声が聞かれました。
豊中市の49歳の会社員の男性は「大阪で育ったことは知りませんでしたが、ゆかりの有名人が亡くなるのは残念です。『おしん』などの重厚感のある作品や『渡る世間は鬼ばかり』といった人情味のある作品まで、さまざまな作品を残した20世紀を代表する脚本家の1人だったと思います。これからも多くの仕事をされると思っていたので、心からお悔やみを申し上げたいです」と話していました。
京都市の69歳の女性は「橋田さんが脚本を書いたドラマが好きで、よく見ていたので驚きました。日常にある小さな感情のすれ違いなど、自分にとっても共感ができる描写が魅力的で、亡くなったと聞いて残念に思います」と話していました。
大阪 北区の30歳の男性は「新しいものを取り入れた作品を次々に生み出されていて、最近も『おしん』を見たばかりでした。すばらしい作品をありがとうございました。お疲れさまでしたと言いたいです」と話していました。
豊中市の49歳の会社員の男性は「大阪で育ったことは知りませんでしたが、ゆかりの有名人が亡くなるのは残念です。『おしん』などの重厚感のある作品や『渡る世間は鬼ばかり』といった人情味のある作品まで、さまざまな作品を残した20世紀を代表する脚本家の1人だったと思います。これからも多くの仕事をされると思っていたので、心からお悔やみを申し上げたいです」と話していました。
京都市の69歳の女性は「橋田さんが脚本を書いたドラマが好きで、よく見ていたので驚きました。日常にある小さな感情のすれ違いなど、自分にとっても共感ができる描写が魅力的で、亡くなったと聞いて残念に思います」と話していました。
大阪 北区の30歳の男性は「新しいものを取り入れた作品を次々に生み出されていて、最近も『おしん』を見たばかりでした。すばらしい作品をありがとうございました。お疲れさまでしたと言いたいです」と話していました。
東京 新宿の街の人は
橋田さんが亡くなったことについて、東京 新宿の街頭で話を聞きました。
50代の女性は「元気だと思っていたのでびっくりしました。『おしん』は、みんなテレビにくぎづけ状態でした。庶民の生活などをよく見て、きちんと表現しているなと思っていました」と話していました。
80代の女性は「『渡る世間は鬼ばかり』が楽しみでファンでした。嫁しゅうとめは難しいところがあるんだなあというところを感じながら見ていました。私も義理の親と住んでおり、よい両親でしたが、それでもやはりいろいろありますから。ご冥福を祈るばかりです」と話していました。
30代の女性は「『渡る世間は鬼ばかり』は子どもながらに衝撃的でした。今はあまりない番組なので、何かひとつ時代が終わったような感じがあります」と話していました。
50代の男性は「厳しい芸能界の中で、女性として第一線で長くやってこられたと思います。最近、芸能界で偉大な方が立て続けに亡くなっているので『またか』という気持ちがあります」と話していました。
50代の女性は「元気だと思っていたのでびっくりしました。『おしん』は、みんなテレビにくぎづけ状態でした。庶民の生活などをよく見て、きちんと表現しているなと思っていました」と話していました。
80代の女性は「『渡る世間は鬼ばかり』が楽しみでファンでした。嫁しゅうとめは難しいところがあるんだなあというところを感じながら見ていました。私も義理の親と住んでおり、よい両親でしたが、それでもやはりいろいろありますから。ご冥福を祈るばかりです」と話していました。
30代の女性は「『渡る世間は鬼ばかり』は子どもながらに衝撃的でした。今はあまりない番組なので、何かひとつ時代が終わったような感じがあります」と話していました。
50代の男性は「厳しい芸能界の中で、女性として第一線で長くやってこられたと思います。最近、芸能界で偉大な方が立て続けに亡くなっているので『またか』という気持ちがあります」と話していました。
ソース:NHK ニュース