Show Furigana
日野原さん 親交あった人から惜しむ声
2017-07-18 07:54:17

日野原さんと交流のあった俳人の金子兜太さんは「日野原さんは俳句が好きで、よく電話をくれました。多方面に豊富な知識がある方なので、私自身も勉強になることが多かったです。100歳を過ぎてものんきにはしゃぐ人で、数年前、一緒にロンドンに行った時もステップを踏んだりはしゃぎすぎて体を痛め、急きょ日本に帰ったこともあったほどです。ひとりではしゃいで楽しみ、同時に周りの人のことを楽しませ緊張している人の心も解きほぐす、気配りのできる人でした。日野原さんは『人間は120歳まで生きることが可能だ』と言っていたので、まだまだ生きて、記録を作ってほしかったです」と話していました。
金子兜太さん「100歳すぎてものんきにはしゃぐ人」
日野原さんと交流のあった俳人の金子兜太さんは「日野原さんは俳句が好きで、よく電話をくれました。多方面に豊富な知識がある方なので、私自身も勉強になることが多かったです。100歳を過ぎてものんきにはしゃぐ人で、数年前、一緒にロンドンに行った時もステップを踏んだりはしゃぎすぎて体を痛め、急きょ日本に帰ったこともあったほどです。ひとりではしゃいで楽しみ、同時に周りの人のことを楽しませ緊張している人の心も解きほぐす、気配りのできる人でした。日野原さんは『人間は120歳まで生きることが可能だ』と言っていたので、まだまだ生きて、記録を作ってほしかったです」と話していました。
宮城まり子さん「父親を亡くしたような思い」
日野原重明さんが役員を歴任してきた静岡県掛川市の障害者の福祉施設「ねむの木学園」の園長で、60年来の親交がある女優の宮城まり子さんは「私は何十年も前に患者としてお世話になって以来、親戚みたいにずっと親しくしていたので、父親を亡くしたような思いです」と話しました。
また、「昔、私が肝臓を悪くして入院していたとき、日野原先生は足が悪いのに、階段を上がったり降りたりしてみせて、『こんなふうに運動しなければだめだよ』と励ましてくれた。ことし私が90歳になってもう年で嫌だと話したときは、『ぼくなんて105歳だよ、もっと頑張らなくちゃだめだ』と元気をくれた。ことしの4月に聖路加病院で診察を受けた時には『なんだ病気なんかして。まりちゃんのほうが僕よりずっと若いじゃないか』と励ましてくださいました。そんなふうに本当の優しさを持っている人で、大好きです」と話していました。
さらに、「施設にも子どもたちの絵を見に来たり、一緒に歌ったりと温かく触れ合ってくださいました。どちらかが死んだら残ったほうでお葬式をしようとお互いに言い合っていました。先に逝くなんてずるいけど、いっぱいいっぱいいっぱいありがとうと言いたい。今はとにかくそばに行きたい気持ちです」と話していました。
また、「昔、私が肝臓を悪くして入院していたとき、日野原先生は足が悪いのに、階段を上がったり降りたりしてみせて、『こんなふうに運動しなければだめだよ』と励ましてくれた。ことし私が90歳になってもう年で嫌だと話したときは、『ぼくなんて105歳だよ、もっと頑張らなくちゃだめだ』と元気をくれた。ことしの4月に聖路加病院で診察を受けた時には『なんだ病気なんかして。まりちゃんのほうが僕よりずっと若いじゃないか』と励ましてくださいました。そんなふうに本当の優しさを持っている人で、大好きです」と話していました。
さらに、「施設にも子どもたちの絵を見に来たり、一緒に歌ったりと温かく触れ合ってくださいました。どちらかが死んだら残ったほうでお葬式をしようとお互いに言い合っていました。先に逝くなんてずるいけど、いっぱいいっぱいいっぱいありがとうと言いたい。今はとにかくそばに行きたい気持ちです」と話していました。
神奈川 黒岩知事「命への思い継承」
日野原重明さんが脚本の原案を手がけたミュージカルをプロデュースするなど、長年にわたって親交があった神奈川県の黒岩祐治知事は神奈川県庁で報道陣に対し「長いおつきあいの中で、日野原先生はいつまでも元気でおられお亡くなりにならないんじゃないかという気がしていましたから、驚き、ショックを受けました。一緒に手がけたミュージカルが成功したときは『これほどうれしいことはない』と言って、とても喜んでいたのを覚えています」と日野原さんとの思い出を語りました。
さらに黒岩知事は、日野原さんから大きな影響を受けたとしたうえで「日野原さんは夢が実現してもそこで止まらずに、次々と新しい夢を描かれ、追いかけられていました。最後まで元気ですばらしい生き方をされ、まさに理想の姿だったと思います。日野原先生から受け継いだいのちに対する思いをしっかりと継承していきたい」と話していました。
さらに黒岩知事は、日野原さんから大きな影響を受けたとしたうえで「日野原さんは夢が実現してもそこで止まらずに、次々と新しい夢を描かれ、追いかけられていました。最後まで元気ですばらしい生き方をされ、まさに理想の姿だったと思います。日野原先生から受け継いだいのちに対する思いをしっかりと継承していきたい」と話していました。
星野富弘さん「また対談するのを楽しみにしていた」
手足が不自由で、口に筆をくわえて詩を添えた水彩画を描くことで知られる群馬県桐生市に住む作家の星野富弘さんは、平成17年から日野原さんと対談をしたり一緒に本を出したりするなどしてきました。
日野原さんが亡くなったことについて星野さんは「平成19年に対談したとき日野原先生と『次の対談は10年後にやりましょう』と約束しました。そろそろ対談の時期だと楽しみにしておりました。訃報を聞いて寂しさもありますが、先生には大切なことをたくさん教えていただきました」とコメントしています。
日野原さんが亡くなったことについて星野さんは「平成19年に対談したとき日野原先生と『次の対談は10年後にやりましょう』と約束しました。そろそろ対談の時期だと楽しみにしておりました。訃報を聞いて寂しさもありますが、先生には大切なことをたくさん教えていただきました」とコメントしています。
「新老人の会」で平和や生きがい伝える
日野原さんは自立して生きる新しい老人の姿を「新老人」と名付けて平成12年に「新老人の会」を立ち上げ、講演活動などを通して平和への思いや生きがいを感じる生き方を伝えてきました。
事務局によりますと、この会では高齢者の自立や世界平和など日野原さんの理念に即した目標を掲げて活動を行っていて、全国におよそ1万人の会員がいるということです。日野原さんは100歳を過ぎてからも積極的に講演活動などを行い、平和への思いや自立してよりよく生きることの大切さを伝えていたということです。
「新老人の会」の石清水由紀子事務局長は「日野原さんはとても偉大な先生なのにそばにいるとそれを感じさせないフレンドリーな人柄でした。最近は戦争に対する思いや平和への思いを口にすることが増えていましたので、会としては今後も先生の考えや理念を伝えていけるような活動を続けていきたい」と話していました。
事務局によりますと、この会では高齢者の自立や世界平和など日野原さんの理念に即した目標を掲げて活動を行っていて、全国におよそ1万人の会員がいるということです。日野原さんは100歳を過ぎてからも積極的に講演活動などを行い、平和への思いや自立してよりよく生きることの大切さを伝えていたということです。
「新老人の会」の石清水由紀子事務局長は「日野原さんはとても偉大な先生なのにそばにいるとそれを感じさせないフレンドリーな人柄でした。最近は戦争に対する思いや平和への思いを口にすることが増えていましたので、会としては今後も先生の考えや理念を伝えていけるような活動を続けていきたい」と話していました。
ソース:NHK ニュース