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羽田孜元首相が死去 82歳
2017-08-28 04:22:05

羽田孜元総理大臣が28日朝、東京都内の自宅で老衰のため亡くなりました。82歳でした。
羽田氏は長野県上田市の出身で、バス会社に勤務したあと、昭和44年に父親の後継として衆議院旧長野2区で自民党から立候補して初当選し、平成24年に政界を引退するまで14回連続で当選しました。
羽田氏は当選同期で、現在、自由党の代表を務める小沢一郎氏らとともに田中派に所属し、その後、竹下派の結成に参加していわゆる「竹下派7奉行」の1人に数えられ、農林水産大臣や大蔵大臣などを歴任しました。
そして、竹下派の会長だった金丸元副総裁が東京佐川急便事件で議員辞職したことをきっかけに小沢氏らとともに竹下派を出て羽田派を結成し、平成5年6月に政治改革法案の取り扱いをめぐって提出された宮沢内閣に対する不信任決議案に賛成して自民党を離党しました。
そして、みずからが党首となって小沢氏らとともに新生党を結成し、翌7月の衆議院選挙の結果、自民党を下野させて、日本新党の代表だった細川護煕氏を総理大臣とする「非自民連立政権」を樹立しました。
羽田氏は細川連立政権で副総理兼外務大臣を務め、およそ8か月で細川内閣が総辞職したのを受けて、第80代の内閣総理大臣に就任しました。
しかし、内閣の発足直前に当時の社会党が連立政権を離脱したことなどから政権基盤が弱く、戦後2番目に短い在任64日で羽田内閣は総辞職しました。
その後も羽田氏は一貫して自民党に代わる新たな政治勢力の結集を訴え、新進党の結党に参加したほか、盟友だった小沢氏と対立して新進党を離党したあとは平成8年に太陽党を結成し、平成10年1月には「国民の声」や「フロムファイブ」と合併してできた民政党の代表になりました。
平成10年の民主党の結成にも参画して、その後、幹事長や最高顧問などを歴任し、保守系のグループのリーダーとして活動しました。
民主党が平成15年に小沢氏が率いていた当時の自由党と合併してからは、一度は、たもとをわかった小沢氏の相談相手にもなりました。
そして、平成22年9月に「年齢や体力に限界があるし、悲願だった政権交代も実現できた。次の衆議院選挙には立候補しない」と表明し、平成24年の衆議院選挙に立候補せず、政界を引退していました。
羽田氏は当選同期で、現在、自由党の代表を務める小沢一郎氏らとともに田中派に所属し、その後、竹下派の結成に参加していわゆる「竹下派7奉行」の1人に数えられ、農林水産大臣や大蔵大臣などを歴任しました。
そして、竹下派の会長だった金丸元副総裁が東京佐川急便事件で議員辞職したことをきっかけに小沢氏らとともに竹下派を出て羽田派を結成し、平成5年6月に政治改革法案の取り扱いをめぐって提出された宮沢内閣に対する不信任決議案に賛成して自民党を離党しました。
そして、みずからが党首となって小沢氏らとともに新生党を結成し、翌7月の衆議院選挙の結果、自民党を下野させて、日本新党の代表だった細川護煕氏を総理大臣とする「非自民連立政権」を樹立しました。
羽田氏は細川連立政権で副総理兼外務大臣を務め、およそ8か月で細川内閣が総辞職したのを受けて、第80代の内閣総理大臣に就任しました。
しかし、内閣の発足直前に当時の社会党が連立政権を離脱したことなどから政権基盤が弱く、戦後2番目に短い在任64日で羽田内閣は総辞職しました。
その後も羽田氏は一貫して自民党に代わる新たな政治勢力の結集を訴え、新進党の結党に参加したほか、盟友だった小沢氏と対立して新進党を離党したあとは平成8年に太陽党を結成し、平成10年1月には「国民の声」や「フロムファイブ」と合併してできた民政党の代表になりました。
平成10年の民主党の結成にも参画して、その後、幹事長や最高顧問などを歴任し、保守系のグループのリーダーとして活動しました。
民主党が平成15年に小沢氏が率いていた当時の自由党と合併してからは、一度は、たもとをわかった小沢氏の相談相手にもなりました。
そして、平成22年9月に「年齢や体力に限界があるし、悲願だった政権交代も実現できた。次の衆議院選挙には立候補しない」と表明し、平成24年の衆議院選挙に立候補せず、政界を引退していました。
地元 長野県上田市では
羽田元総理大臣の地元、長野県上田市のJR上田駅前では羽田氏が亡くなったことを伝える新聞の号外が配られました。
66歳の女性は「連立政権で総理を務めていたことをよく覚えています。政権は2か月ほどで短命でしたが、もう少し長くやってほしかったです。一度は総理になった上田の方なので亡くなったのは残念ですが、一つの時代が終わった感じがします」と話していました。
また、49歳の男性会社員は「残念な方を亡くしました。最近はメディアにも出ていなかったので、亡くなったことを号外で知って驚きました。激動の時代のなか苦労も多かったのではないかと思います」と話していました。
66歳の女性は「連立政権で総理を務めていたことをよく覚えています。政権は2か月ほどで短命でしたが、もう少し長くやってほしかったです。一度は総理になった上田の方なので亡くなったのは残念ですが、一つの時代が終わった感じがします」と話していました。
また、49歳の男性会社員は「残念な方を亡くしました。最近はメディアにも出ていなかったので、亡くなったことを号外で知って驚きました。激動の時代のなか苦労も多かったのではないかと思います」と話していました。
自民 二階幹事長「温厚な人柄で敬愛集めた」
かつて羽田氏とともに新生党や新進党の結成に参加した、自民党の二階幹事長は、記者団に対し「政党をともにしたこともあり、思い出は深く、大変残念だ。温厚で人の意見にじっくり耳を傾けて対応する政治家で、その穏やかな人柄はみんなから敬愛されていた。羽田氏が残した政治への思いをわれわれはあらゆる面で引き継いでいかなければいけないと思っている」と述べました。
民進 蓮舫代表「政治改革に大きな功績」
民進党の蓮舫代表は国会内で記者団に対し「非常に残念だ。羽田氏は『ミスター政治改革』と呼ばれていたが、私が行財政改革を追い求めてきたのは羽田氏の功績がとても大きかったためだ。みずから前に出る方ではなかったが、譲らないところは譲らない、頑固な方だった。そうした思いを私たちも学んでいかなければならない」と述べました。
ソース:NHK ニュース