長崎 原爆投下から78年 “命輝く青い地球を次の世代に”
2023-08-09 05:12:41

ことしの平和祈念式典は、台風の接近にともない、参列者の安全を優先して会場が平和公園から屋内の施設に変更されました。
また、一般の被爆者や遺族のほか、岸田総理大臣や各国大使の参列が見送られるなど、規模が大幅に縮小されました。
式典では、まず、この1年間に亡くなった被爆者など3314人の名前が書き加えられた19万5607人の原爆死没者名簿が納められました。
そして、原爆がさく裂した午前11時2分に、事前に収録された平和公園の鐘の音が流され、犠牲者に黙とうをささげました。
続いて、被爆2世の長崎市の鈴木市長が平和宣言を読み上げました。
鈴木市長は、背中に真っ赤な大やけどを負った姿で原爆の恐ろしさを世界に訴え続けた、被爆者の谷口稜曄さんが残した「忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことをおそれます」とのことばを紹介しました。
そして、「核抑止に依存していては、核兵器のない世界を実現することはできません。私たちの安全を本当に守るためには、地球上から核兵器をなくすしかないのです」と述べました。
そのうえで、核保有国と核の傘のもとにいる国の指導者に対して、「今こそ、核抑止への依存からの脱却を勇気を持って決断すべきです」と訴えました。
「私の背中は見世物ではない。誰がこれをやったのか知ってほしい」谷口稜曄さん(NHKアーカイブス)
続いて、被爆者代表として熊本市に住む工藤武子さん(85)が「平和への誓い」を述べました。
工藤さんは、7歳のときに長崎市で被爆し、戦後、両親ときょうだいを相次いでがんで失ったことや、自身も肺がんの手術を受けたことを語りました。
そのうえで、「たった一発の原爆で、長崎ではおよそ7万4000人、広島では14万人が亡くなり、生き残った人々の多くも、今なお、さまざまな後遺症に苦しんでいます。放射能に汚染された灰色の世界ではなく、命輝く青い地球を次の世代に残すために、これからも力のかぎり尽くしていくことを誓います」と述べました。
ことし、被爆者の平均年齢は85歳に達しました。
この1年で、長崎県内では平和活動を先導してきた被爆者が相次いで亡くなっています。
「被爆者なき時代」が近づきつつある中、長崎は、きょう一日、犠牲者への祈りに包まれるとともに、「長崎を最後の被爆地に」という被爆者たちの願いを世界に発信します。
高校生“核兵器のない平和な未来実現へ決意”
「長崎原爆の日」にあわせて、高校生による集会が長崎市内で開かれました。
参加者たちは輪になって手をつないで「人間の鎖」を作り核兵器のない平和な未来の実現に向けた決意を示しました。
高校生による集会は例年、爆心地公園で行われていましたが、ことしは台風の影響で、長崎市内の屋内施設での開催となりました。
集会は午前7時前から始まり、核兵器廃絶を求める署名を国連に届ける活動を行う「高校生平和大使」など、長崎県の内外から合わせて80人ほどが参加しました。
参加者はまず、黙とうしたあと、献花台に千羽鶴や花を手向けて原爆の犠牲者に祈りをささげました。
そして、参加者全員で輪になって、手をつないで「人間の鎖」を作り、核兵器のない平和な未来の実現に向けた決意を示しました。
最後に、参加者を代表して、諫早高校3年の高川紗希さんが「全員で平和への思いを世界中へ広げていくことを誓います」と宣言しました。
鎮西高校の2年生で、被爆4世の大澤心春さんは「曽祖母は、この日にとてもつらい経験をして、話をしようとすると涙があふれていたと聞いています。私も受け継いで発信していきたいです」と話していました。
また、熊本県から参加した高校2年生の小佐々湘太さんは「原爆投下という不条理を押しつけられた人たちの気持ちを考えていました。被爆者から話を聞くことができる最後の世代として、原爆を風化させないよう頑張って活動したいです」と話していました。
平和公園で祈りをささげる人の姿も
例年は平和祈念式典の会場となる長崎市の平和公園では、原爆がさく裂した午前11時2分に合わせて祈りをささげる人たちの姿が見られました。
佐賀県の実家に家族4人で帰省したという埼玉県の39歳の男性は「私も子どものころ、母親に連れられてこの平和公園に何回も来ました。上の娘が小学4年生になり、平和や戦争のことがわかる年代になったので見てもらいたいと思い連れてきました。子どもにはこの場所を見てもらい、同じような悲惨な出来事が起こらないようにするにはどうしたらよいか、考えるきっかけにしてもらいたい」と話していました。
また、小学4年生の娘は「戦争では何百人、何千人、何万人も亡くなります。何もしていない人が亡くなるのは嫌だから、同じようなことが起きないように平和な世の中になるように祈りました」と話していました。
被爆者 三田村さん「ここから平和を訴えようと 力強く鳴らした」
台風の影響で平和祈念式典に参加できなかった長崎市に住む三田村静子さんは、原爆がさく裂した午前11時2分に合わせて、長崎市の平和公園で鐘を鳴らして平和への祈りをささげました。
三田村静子さんは3歳の時、爆心地からおよそ5キロ離れた長崎市内の自宅で被爆しました。
その後、30年以上にわたって、自身の経験や被爆者から聞き取った証言を紙芝居にまとめて、被爆の実相を後世に伝える活動を行っています。
ことしの平和祈念式典では、被爆者代表として「原爆死没者名簿」を奉安箱に納める予定でしたが式典の規模が縮小されたため鈴木市長が代行することになりました。
三田村さんは9日、被爆者団体のメンバーとともに長崎市の平和公園を訪れ原爆がさく裂した午前11時2分にあわせて、「長崎の鐘」をおよそ1分間鳴らしました。
三田村さんは「ここから平和を訴えようと思って、力強く鐘を鳴らしました。核兵器禁止条約で光がさしたと思ったら、また戦争が起きて、いつになったら平和が訪れるんだろうと思います。しかし、負けずに原爆投下から80年に向けてこれからも平和を発信し続けていきたい」と話していました。
被災協 田中会長「被爆者のためにも 核兵器廃絶を」
4歳の時に自宅で被ばくした被災協=長崎原爆被災者協議会の田中重光会長は例年、平和祈念式典に参列していましたが、ことしは式典の規模が縮小されたため原爆がさく裂した11時2分を自宅で迎えました。
田中さんは、11時2分を知らせるサイレンが鳴り響くと、目を閉じて静かに手を合わせました。
今回の式典について「なんとも言えない気持ちです。特に今の国際情勢で核が使用されるのではないかという危険が高まっているときに、強い発信ができないことは残念だと思います」と話していました。
そのうえで「もう原爆投下から78年がたったんだなと感じました。苦しんできた被爆者のためにも核兵器を廃絶しないといけません。やがて被爆者はいなくなります。被爆者がいなくなったときにどうするのか、世界中の一人一人に考えてほしいです。また、若い人たちの未来は若い人たち自身が作っていくので、平和や核兵器の問題を自分ごととして考えてほしいです」と話していました。