Hiện Furigana
天皇皇后両陛下 ベトナムで旧日本軍兵士の家族と面会
2017-03-02 07:49:31

ベトナムでの滞在3日目となる両陛下は、現地時間の午前10時すぎ、11世紀にベトナム最古の大学が置かれた首都ハノイの史跡、「文廟」を訪ねられました。ここでは、かつて日本で学んだベトナム人の元留学生や、日本で看護師や介護士として働くことを目指している学生たち20人余りと懇談し、両陛下は、終始にこやかな様子で、「日本語の勉強はどうですか」などと声をかけられていました。
介護福祉士の候補生として、ことし5月に日本に渡る、レー・スアン・チュンさん(24)は「日本のお年寄りを助けて、両国の架け橋になりたいです。天皇陛下から『待っていますよ』と励ましていただき、頑張ろうと思いました」と話していました。
続いて両陛下は宿泊先のホテルで、第2次世界大戦中に、当時のフランス領インドシナに進駐し、ベトナムで終戦を迎えた旧日本軍の兵士、「残留日本兵」の妻や子どもたちと面会されました。
残留日本兵は、終戦後も現地に残ってベトナム人とともに、フランスとの独立戦争に加わるなどしましたが、政治体制の変化などもあって、1950年代以降、多くが日本に帰国し、ベトナムに残った家族は生き別れになりました。
家族たちは経済的に苦しく、さまざまな差別にも直面したということで、宮内庁によりますと、両陛下は訪問前に家族たちのことを知り、面会を望まれたということです。
両陛下から「本当に長い間、苦労されましたね」とか、「くれぐれもお元気でね」などと、いたわりの言葉をかけられ、涙を流す人もいました。
妊娠中に夫が日本に帰国し、3人の子どもたちを女手一つで育てたというグエン・ティ・スアンさん(93)は「長年の戦争でさまざまな困難に遭いましたが、ご高齢の両陛下がわざわざベトナムを訪問して、私たちに会っていただき感謝しています。両陛下がこれからもお元気でいてくださることを祈っています」と話していました。
介護福祉士の候補生として、ことし5月に日本に渡る、レー・スアン・チュンさん(24)は「日本のお年寄りを助けて、両国の架け橋になりたいです。天皇陛下から『待っていますよ』と励ましていただき、頑張ろうと思いました」と話していました。
続いて両陛下は宿泊先のホテルで、第2次世界大戦中に、当時のフランス領インドシナに進駐し、ベトナムで終戦を迎えた旧日本軍の兵士、「残留日本兵」の妻や子どもたちと面会されました。
残留日本兵は、終戦後も現地に残ってベトナム人とともに、フランスとの独立戦争に加わるなどしましたが、政治体制の変化などもあって、1950年代以降、多くが日本に帰国し、ベトナムに残った家族は生き別れになりました。
家族たちは経済的に苦しく、さまざまな差別にも直面したということで、宮内庁によりますと、両陛下は訪問前に家族たちのことを知り、面会を望まれたということです。
両陛下から「本当に長い間、苦労されましたね」とか、「くれぐれもお元気でね」などと、いたわりの言葉をかけられ、涙を流す人もいました。
妊娠中に夫が日本に帰国し、3人の子どもたちを女手一つで育てたというグエン・ティ・スアンさん(93)は「長年の戦争でさまざまな困難に遭いましたが、ご高齢の両陛下がわざわざベトナムを訪問して、私たちに会っていただき感謝しています。両陛下がこれからもお元気でいてくださることを祈っています」と話していました。
ベトナム残留日本兵の家族 厳しい生活
第2次世界大戦中、日本軍は中国への物資の支援ルートを絶とうと、1940年以降、フランス領インドシナに進駐し、終戦当時も10万人近くの日本兵が現在のベトナムにいたとされています。
終戦後、そのほとんどが日本に引き揚げましたが、一部の兵士は現地に残り、植民地支配を続けようとしたフランスからの独立を目指す「べトミン」に合流し、教官としてベトナム人の訓練にあたったり、フランス軍との戦闘に加わったりしたということです。こうした残留日本兵は当時、数百人いたと見られています。
しかし、1949年に中華人民共和国が誕生すると、べトミンは中国から大規模な支援を受けるようになり、それまでべトミンとともに戦っていた残留日本兵は、次第に居場所がなくなったと元日本兵は証言しています。
残留日本兵の多くはベトナムの女性と結婚し、家庭を築いていましたが、こうした状況の変化を受けて、そのほとんどが1954年以降、帰国することになりました。元日本兵によりますと、帰国にあたって妻子を連れて行くことはベトナム政府が許さず、多くの家族が日本とベトナムの間で離れ離れになってしまったということです。
さらにベトナム戦争が始まると、西側陣営の一員と見られていた日本に対する反感も強まり、残された妻や子はさまざまな嫌がらせを受けたり、就職などでも差別されたりするなど、厳しい生活を送ってきました。
こうしたことからベトナムに残された家族は最近まで、過去を積極的には明らかにせず、また、日本に戻った残留日本兵たちも同様だったため、戦後、日本とベトナムの間で引き裂かれた家族がいるという事実は、ほとんど知られていませんでした。
終戦後、そのほとんどが日本に引き揚げましたが、一部の兵士は現地に残り、植民地支配を続けようとしたフランスからの独立を目指す「べトミン」に合流し、教官としてベトナム人の訓練にあたったり、フランス軍との戦闘に加わったりしたということです。こうした残留日本兵は当時、数百人いたと見られています。
しかし、1949年に中華人民共和国が誕生すると、べトミンは中国から大規模な支援を受けるようになり、それまでべトミンとともに戦っていた残留日本兵は、次第に居場所がなくなったと元日本兵は証言しています。
残留日本兵の多くはベトナムの女性と結婚し、家庭を築いていましたが、こうした状況の変化を受けて、そのほとんどが1954年以降、帰国することになりました。元日本兵によりますと、帰国にあたって妻子を連れて行くことはベトナム政府が許さず、多くの家族が日本とベトナムの間で離れ離れになってしまったということです。
さらにベトナム戦争が始まると、西側陣営の一員と見られていた日本に対する反感も強まり、残された妻や子はさまざまな嫌がらせを受けたり、就職などでも差別されたりするなど、厳しい生活を送ってきました。
こうしたことからベトナムに残された家族は最近まで、過去を積極的には明らかにせず、また、日本に戻った残留日本兵たちも同様だったため、戦後、日本とベトナムの間で引き裂かれた家族がいるという事実は、ほとんど知られていませんでした。
ソース:NHK ニュース