Hiện Furigana
重文の日銀本店本館 免震化工事の現場を公開
2017-03-09 05:37:39

日銀本店の本館は、東京駅の設計者として知られる建築家の辰野金吾が設計し明治29年に完成した、地下1階地上3階建ての建物で、国の重要文化財に指定されています。
去年10月から、首都直下地震などに備えた免震化工事が進められていて、ふだんは見られない掘削現場が9日に公開されました。
本館は、外壁に花こう岩などが使われ、総石造りの建物に見えますが、実際には、れんがの外壁を石で覆う構造になっています。
深さ7メートルまで掘られた工事の現場を見ると、地下部分の外壁は、れんががむき出しになっていて、れんが造りの建物であることがわかります。
本館は、当時としては珍しいコンクリートの土台を作り、高い場所の外壁はれんがを薄くして軽量化することなどによって、耐震性を高めたということで、大正12年の関東大震災でも壊れませんでした。
今回の工事では、コンクリートの土台の下に、新たに鉄筋コンクリート製の土台を設け、2つの土台の間に、揺れを吸収するゴムを使った免震装置を100台余り取り付けます。
本館の免震工事の総事業費は60億円余りに上り、再来年の夏ごろに終わる計画です。
日銀文書局の中村茂樹技師は「6年前の東日本大震災以降、地震への備えは一段と重要になっている。日銀の業務の継続に加え、後世に重要文化財を残していくためにも、免震化工事を着実に進めたい」と話しています。
去年10月から、首都直下地震などに備えた免震化工事が進められていて、ふだんは見られない掘削現場が9日に公開されました。
本館は、外壁に花こう岩などが使われ、総石造りの建物に見えますが、実際には、れんがの外壁を石で覆う構造になっています。
深さ7メートルまで掘られた工事の現場を見ると、地下部分の外壁は、れんががむき出しになっていて、れんが造りの建物であることがわかります。
本館は、当時としては珍しいコンクリートの土台を作り、高い場所の外壁はれんがを薄くして軽量化することなどによって、耐震性を高めたということで、大正12年の関東大震災でも壊れませんでした。
今回の工事では、コンクリートの土台の下に、新たに鉄筋コンクリート製の土台を設け、2つの土台の間に、揺れを吸収するゴムを使った免震装置を100台余り取り付けます。
本館の免震工事の総事業費は60億円余りに上り、再来年の夏ごろに終わる計画です。
日銀文書局の中村茂樹技師は「6年前の東日本大震災以降、地震への備えは一段と重要になっている。日銀の業務の継続に加え、後世に重要文化財を残していくためにも、免震化工事を着実に進めたい」と話しています。
「円」の形? 本館めぐるあれこれ
東京・中央区にある日銀本店は、今回、免震化工事が行われている本館のほか、旧館と新館、それに南分館の4つの建物に分かれています。
このうち本館は、121年前の明治29年に完成したもので、昭和49年に国の重要文化財に指定されています。
上空から見ると、日本の通貨である「円」の形をしていることでも知られています。
ただ、当時の通貨の単位は、今の「円」ではなく、旧字体の「圓」が使われていたことから、日銀は上空から見たデザインと通貨の単位とに関連性があるかは、わからないとしています。
本館をデザインしたのは、東京駅を設計したことでも知られる建築家の辰野金吾です。大規模な災害が起きても金融システムの中核としての機能が維持できるよう、耐震性を高める独自の工夫をしています。
耐震性を重視した背景には、明治24年に岐阜県を震源地とし大きな被害を出した濃尾地震がありました。
当初は、欧米の建築物のように石を積み上げる総石造りとする計画でしたが、濃尾地震の被害状況を踏まえて、外壁にれんがを採用し、外側を石で覆う構造に変更しました。
多くの建造物が倒壊した大正12年の関東大震災でも、本館の建物は大きな被害を受けず、耐震性に優れていることが裏付けられました。
ただ、周辺で起きた火事の炎が本館に燃え移り、シンボルだったドーム状の屋根が焼けたほか、設計図面の多くが失われました。
今回の免震化工事は、本館の周辺を大規模に掘削する初めての機会となることから、新たな設計の工夫が明らかになったり、文化財が発掘されたりするのではないかと、注目されています。
また、本館の地下1階には、平成16年まで使われてきた金庫が残っています。日本の経済成長に伴って、お金の流通量が増えたことなどから昭和7年に大規模な拡張工事が行われ、延べ床面積は1426平方メートル、テニスコートおよそ5面分に当たります。
この時に取り付けた金庫の扉は厚さが90センチもあり、年間4万人程度の人たちが訪れる見学ツアーで人気のスポットとなっています。
このうち本館は、121年前の明治29年に完成したもので、昭和49年に国の重要文化財に指定されています。
上空から見ると、日本の通貨である「円」の形をしていることでも知られています。
ただ、当時の通貨の単位は、今の「円」ではなく、旧字体の「圓」が使われていたことから、日銀は上空から見たデザインと通貨の単位とに関連性があるかは、わからないとしています。
本館をデザインしたのは、東京駅を設計したことでも知られる建築家の辰野金吾です。大規模な災害が起きても金融システムの中核としての機能が維持できるよう、耐震性を高める独自の工夫をしています。
耐震性を重視した背景には、明治24年に岐阜県を震源地とし大きな被害を出した濃尾地震がありました。
当初は、欧米の建築物のように石を積み上げる総石造りとする計画でしたが、濃尾地震の被害状況を踏まえて、外壁にれんがを採用し、外側を石で覆う構造に変更しました。
多くの建造物が倒壊した大正12年の関東大震災でも、本館の建物は大きな被害を受けず、耐震性に優れていることが裏付けられました。
ただ、周辺で起きた火事の炎が本館に燃え移り、シンボルだったドーム状の屋根が焼けたほか、設計図面の多くが失われました。
今回の免震化工事は、本館の周辺を大規模に掘削する初めての機会となることから、新たな設計の工夫が明らかになったり、文化財が発掘されたりするのではないかと、注目されています。
また、本館の地下1階には、平成16年まで使われてきた金庫が残っています。日本の経済成長に伴って、お金の流通量が増えたことなどから昭和7年に大規模な拡張工事が行われ、延べ床面積は1426平方メートル、テニスコートおよそ5面分に当たります。
この時に取り付けた金庫の扉は厚さが90センチもあり、年間4万人程度の人たちが訪れる見学ツアーで人気のスポットとなっています。
生みの親 辰野金吾
日銀本店の本館を設計した辰野金吾氏は、日本の近代洋風建築を代表する建築家として知られています。
辰野氏は、江戸時代末期の1854年、今の佐賀県に唐津藩士の次男として生まれました。明治5年に上京後、今の東京大学工学部で近代建築の基礎を学び、首席で卒業したと言われています。
その後、海外留学を経て、今の東京大学、当時の帝国大学建築学科で教授に就任しました。
辰野氏と日銀の関わりは、明治21年、政府が日銀本店の本館の設計者として推薦したことが始まりだったと言われています。
欧米の中央銀行を視察した辰野氏は、当時のベルギーの中央銀行や、イングランド銀行の本店などの外観を参考に、日銀の本館を設計しました。その後も、日銀の大阪支店や京都支店などの建築に関わったほか、大正3年に開業した東京駅も設計しています。
辰野氏は、江戸時代末期の1854年、今の佐賀県に唐津藩士の次男として生まれました。明治5年に上京後、今の東京大学工学部で近代建築の基礎を学び、首席で卒業したと言われています。
その後、海外留学を経て、今の東京大学、当時の帝国大学建築学科で教授に就任しました。
辰野氏と日銀の関わりは、明治21年、政府が日銀本店の本館の設計者として推薦したことが始まりだったと言われています。
欧米の中央銀行を視察した辰野氏は、当時のベルギーの中央銀行や、イングランド銀行の本店などの外観を参考に、日銀の本館を設計しました。その後も、日銀の大阪支店や京都支店などの建築に関わったほか、大正3年に開業した東京駅も設計しています。
ソース:NHK ニュース