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沖縄おきなわせんから78ねん慰霊いれい平和へいわへのいの

2023-06-23 09:19:25

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沖縄おきなわは23にち太平洋たいへいよう戦争せんそう末期まっき沖縄おきなわせんから78ねんの「慰霊いれい」をむかえ、各地かくち平和へいわへのいのがささげられています。最後さいご激戦げきせんとなった沖縄おきなわ本島ほんとう南部なんぶ糸満いとまんでは沖縄おきなわけん主催しゅさい戦没せんぼつしゃ追悼ついとうしきひらかれました。
昭和しょうわ20ねん沖縄おきなわせんでは、住民じゅうみん巻き込まきこんだはげしい地上ちじょうせんすえ、20まんにん以上いじょうくなり県民けんみんの4にんに1にんいのちとしました。

6つき23にちは、きゅう日本にっぽんぐん組織そしきてき戦闘せんとうわったとされるで、沖縄おきなわけんが「慰霊いれい」とさだめています。

最後さいご激戦げきせんとなった糸満いとまん摩文仁まぶに平和へいわ祈念きねん公園こうえんでは、早朝そうちょうから遺族いぞくなどおとずれ、戦没せんぼつしゃ名前なまえきざまれた「平和へいわいしずえ」のまえはな手向たむけたり、わせたりしていました。

平和へいわ祈念きねん公園こうえんでは、正午しょうごまえから沖縄おきなわけん主催しゅさい戦没せんぼつしゃ追悼ついとうしきが、岸田きしだ総理そうり大臣だいじん沖縄おきなわけん玉城たまき知事ちじほか、4ねんぶりに一般いっぱんひと参列さんれつしてひらかれ、正午しょうご全員ぜんいんで1分間ふんかんもくとうをささげました。

玉城たまき知事ちじ二度にど沖縄おきなわ戦場せんじょうにしてはならないと決意けついあらに”

このあと、玉城たまき知事ちじは「平和へいわ宣言せんげん」を読み上よみあげ、「戦争せんそう体験たいけんしゃ後世こうせい語り継かたりついできてくれた実相じっそう教訓きょうくんむねきざみ、あらゆる戦争せんそうにくみ、二度にど沖縄おきなわ戦場せんじょうにしてはならないと決意けついあらたにする」とべました。

また政府せいふ去年きょねん12つき決定けっていした「反撃はんげき能力のうりょく」の保有ほゆう明記めいきした「国家こっか安全あんぜん保障ほしょう戦略せんりゃくなど3つの文書ぶんしょをめぐり、「沖縄おきなわにおける防衛ぼうえいりょく強化きょうか関連かんれんする記述きじゅつ多数たすうみられるなど、苛烈かれつ地上ちじょうせん記憶きおくあいまって県民けんみんおおきな不安ふあんしょうじさせていて、対話たいわによる平和へいわ外交がいこうもとめられている」とうったえました。

岸田きしだ首相しゅしょう世界せかい平和へいわ実現じつげん不断ふだん努力どりょくかさねることをちか

岸田きしだ総理そうり大臣だいじんはあいさつのなかで、「さき大戦たいせんここ沖縄おきなわ凄惨せいさんな(せいさん)地上ちじょうせんとなった。わたしたちが享受きょうじゅしている平和へいわ繁栄はんえいは、いのちとされた方々かたがたとうと犠牲ぎせい沖縄おきなわあゆんだ苦難くなん歴史れきしうえにある。 戦争せんそう惨禍さんかを2繰り返くりかえさないつよ決意けついのもと、しずあたまれたいとおも」とべました。

そのうえで、去年きょねん復帰ふっき50ねん節目ふしめむかえた沖縄おきなわ経済けいざいは、これまで成長せいちょうしてきた一方いっぽう、コロナからの観光かんこうぎょう復興ふっこうや、物価ぶっか高騰こうとうへの対応たいおうなどあら課題かだいにも直面ちょくめんしているとして、魅力みりょく最大限さいだいげんかし、「つよ沖縄おきなわ経済けいざい」の実現じつげんけて国家こっか戦略せんりゃくとして振興しんこう取り組とりくかんが強調きょうちょうしました。

また沖縄おきなわアメリカぐん基地きち集中しゅうちゅうしていることをおも受け止うけとめるとしたうえで、「える成果せいかひとひと着実ちゃくじつ積み上つみあげ、基地きち負担ふたん軽減けいげん全力ぜんりょく取り組とりくんでいく」とべました。

そして、「わが国わがくに取り巻とりま安全あんぜん保障ほしょう環境かんきょう戦後せんごもっときびしく複雑ふくざつ状況じょうきょうあるが、世界せかいだれもが平和へいわこころゆたらせる世の中よのなか実現じつげんするため、不断ふだん努力どりょくかさねていくことをあらためて、みれいちか」とべました。

このほかしきでは高校こうこう3年生ねんせい平安へいあんめいあきさんが、ことしの「平和へいわ」にえらばれた「いま平和へいわいかける」を朗読ろうどくしました。

岸田きしだ首相しゅしょう沖縄おきなわ県民けんみん経験けいけんした苦難くなん あらためてふかこころきざ

岸田きしだ総理そうり大臣だいじん訪問ほうもんさき沖縄おきなわけん記者きしゃだんに、「おおほうと共ととも追悼ついとうしき参列さんれつさせていただき、沖縄おきなわ県民けんみん経験けいけんした苦難くなんあらためてふかこころきざと共とともに、沖縄おきなわ発展はってん世界せかい平和へいわ実現じつげんけて不断ふだん努力どりょく積み重つみかさねていく決意けついあらにした」とべました。

一方いっぽう沖縄おきなわ基地きち負担ふたん軽減けいげんについては、「取り組とりく実際じっさいうごかし、結果けっかという積み重つみかさがなければ、理解りかいしてもらえない。いま基地きち負担ふたんけてかんがえているさまざまなことに結果けっかひとひとしていくことがなによりももとめられているとかんじており、そういった努力どりょくつづけていきたい」とべました。

各地かくち犠牲ぎせいしゃへの追悼ついとう平和へいわへのいのいちにち

ひめゆり学徒隊ひめゆりがくとたい慰霊いれいさい 4ねんぶり通常つうじょうどおり開催かいさい

沖縄おきなわせん負傷ふしょうした兵士へいし看護かんご動員どういんされ、おお犠牲ぎせいしゃした「ひめゆり学徒隊ひめゆりがくとたい」の慰霊いれいさいが、沖縄おきなわけん糸満いとまんのひめゆりのとうまえで4ねんぶりに通常つうじょうどおり開催かいさいされ、もと学徒がくとたい同窓どうそうせい、それに遺族いぞくなど生徒せいといたみました。
ひめゆり学徒隊ひめゆりがくとたいには、沖縄おきなわせん当時とうじ那覇なは安里あさとにあった沖縄おきなわ師範しはん学校がっこう女子じょし県立けんりつだいいち高等こうとうおんな学校がっこうから生徒せいと教員きょういん240にん動員どういんされ、負傷ふしょうへい看護かんごなどにあたり、半数はんすう以上いじょうくなったほか動員どういんされなかったひとわせると227にんくなりました。

慰霊いれいさい通常つうじょうどおりの開催かいさいは4ねんぶりとなり、会場かいじょうのひめゆりのとうまえには、同窓どうそうせい遺族いぞく一般いっぱん参列さんれつしゃおよそ170にんあつまりましたが、もと学徒がくとはひめゆり平和へいわ祈念きねん資料しりょうかんぜん館長かんちょう島袋しまぶくろ淑子としこさん(95)と仲里なかざと正子まさこさん(96)の2にんだけでした。

慰霊いれいさいでは、同窓どうそうかい会長かいちょういののことばをべたのち卒業そつぎょうしきうたはずだった「わかうた」をうたい、当時とうじ生徒せいとたちは時折ときおりなみだかべていました。
もと学徒がくと島袋しまぶくろ淑子としこさんは、「どこどんなふうにしてくなったかわからない友達ともだちもいるので、なんねんたっても、それだけはどうしてもわすれることができない。戦争せんそうこしたひとにくんでいます。次々つぎつぎ学友がくゆう年齢ねんれいくなっているが、わたしきているかぎり、戦争せんそう絶対ぜったいしてはいけない、絶対ぜったいだめだということをつたえていきたい」とはなしていました。

平和へいわ祈念きねん資料しりょうかん普天間ふてんまちょうけい館長かんちょうは、「コロナずっとさびしいおもをしていたが、たくさんみなさんくなったほう追悼ついとうできてよかった。体験たいけんしゃほどの力強ちからづよさはないが、わたしたちにできる方法ほうほう沖縄おきなわせんのことをつたえていきたい。体験たいけんしゃみなさんは、戦争せんそうらないから戦争せんそうをするとはなしていたので、本当ほんとう戦争せんそうすこしでもことができる場所ばしょの1つでもある資料しりょうかん戦争せんそう実相じっそうってほしい」とはなしていました。

白梅はくばい学徒がくとたい」の慰霊いれいさい

沖縄おきなわせん動員どういんされた「白梅はくばい学徒がくとたい」の女子じょし学徒がくとなど追悼ついとうする慰霊いれいさいが、沖縄おきなわけん糸満いとまんおこなわれました。

白梅はくばい学徒がくとたい」は、沖縄おきなわせん当時とうじ県立けんりつだい高等こうとうおんな学校がっこうかよ女子じょし生徒せいとたちを看護かんご要員よういんとして動員どういんしてつくった学徒がくとたいです。
23にち糸満いとまん真栄しんえいさとにある「白梅はくばいとう」で、学徒がくとたい犠牲ぎせいになった22にん学徒がくとふく149にん追悼ついとうする慰霊いれいさいひらかれ、けんがいからおとずれる遺族いぞく姿すがたられました。

このなかで、白梅はくばい学徒がくとたい戦争せんそう体験たいけん語り継かたりつ活動かつどうおこなっている「わかうめかい」の新垣にいがきゆきさんが、「先輩せんぱいかた安心あんしんできる未来みらいなるよう、絶対ぜったい繰り返くりかえしてはいけない歴史れきし後世こうせいにつないでいきたいです」と平和へいわメッセージ読み上よみあげました。

このあと参加さんかしゃたちは線香せんこうをあげ、しずわせていました。

あね学徒がくとたいとして動員どういんされ犠牲ぎせいになったという埼玉さいたまけん安次やすじみね博子ひろこさん(90)は、「あねはとても頑張がんばさんでした。あねかおと、きのうのように思い出おもいだします。元気げんきだったらたのしいはなしができたでしょう。大切たいせつひとくなる戦争せんそう絶対ぜったいやってはいけないです」とはなしていました。

高齢こうれい体調たいちょう万全ばんぜんでないこともあって、慰霊いれいさいには出席しゅっせきしませんでしたが、もと学徒がくと同窓どうそうせい白梅はくばいとうおとずれ、祭壇さいだんかってわせたり、祭壇さいだんかれた学友がくゆういちにんいちにん写真しゃしんながめてかたりかけたりしていました。

学徒がくとたいとして動員どういんされたもと学徒がくと武村たけむらゆたかさん(94)は、「きくさんという大切たいせつひとくなってしまいました。わたしたちみたいに、くにのためじゃなくて、自分じぶん家族かぞくとか身近みぢかひと大切たいせつにしてほしい。戦争せんそうもういやです。どもたちにも戦争せんそういやだとえるになってほしい」とはなしていました。

疎開そかいして生き延いきのびた同窓どうそうせい岸本きしもと瑞江みずえさん(94)は、「わたし疎開そかいをして生き延いきのびました。友達ともだち再開さいかいしたときには『あなたきていたんだね』っていうのが最初さいしょのあいさつでした。戦争せんそうだけはしてはいけないですよ」とはなしていました。

沖縄おきなわせん経験けいけん女性じょせい 自宅じたくからいの

沖縄おきなわせん経験けいけんしたひとなかには高齢こうれいのため平和へいわいしずえおとずれることができなくなり、自宅じたくからいのりをささげるひともいます。

沖縄おきなわ96さい太田おおた康子やすこさん沖縄おきなわせんとき、18さいでした。

ふるさとの本部もとぶまちには、きゅう日本にっぽんぐん拠点きょてんかまえていたため自宅じたく周辺しゅうへん一帯いったい戦場せんじょうとなり、家族かぞくとともに山々やまやま逃げ回にげまわったといいます。

太田おおたさんは、いのちからがら生き延いきのびましたが、あにたち戦場せんじょう駆り出かりだされたり敗残はいざんへい間違まちがわれて、銃撃じゅうげきされたりして親族しんぞく6にん戦争せんそうくしました。

糸満いとまん平和へいわ祈念きねん公園こうえんある平和へいわいしずえには、その名前なまえきざまれています。

くなったあにについて太田おおたさんは、「くちかずはすくなかったですが、からだ丈夫じょうぶやさしくとてもよくしてもらいました。兵隊へいたいとして伊江いえとうってくなりましたが、どこどのようにくなったかいまもからず、遺骨いこつもかえってきていません」とはなしていました。

例年れいねん慰霊いれいその前後ぜんごには現地げんちおとずれていましたが、高齢こうれいになり遠出とおでができなくなったため、このすうねん自宅じたく犠牲ぎせいしゃへのいのをささげています。

太田おおたさんは23にち沖縄おきなわ自宅じたく式典しきてんテレビ中継ちゅうけいつめ、正午しょうごもくとうをささげました。
もくとうえるふかあたまげ、なみだぬぐっていました。
太田おおたさんは、「あの戦争せんそうのあのときくるしみは、なんじゅうねんたってもわすれはしません。同級生どうきゅうせいも、きょうだいも、おいごたちもみんなくなって遺骨いこつもかえってこない。どこどうしてくなったのかもわからない。さがしにいけるのであれば、いまでもいきたい気持きもくやしいです」とはなしていました。

そしてわか世代せだいけて、「いまくにどうしがしていることは、わたしたち個人こじん個人こじんではどうにもならないが、わかひとたちどうしがなかよくして、二度にど戦争せんそうこさないようにしてもらいたい」とはなしていました。

平和へいわとうとうったえてきたもと学徒がくと 相次あいついでくなる

沖縄おきなわせんではきゅう日本にっぽんぐんによって、おお若者わかもの学業がくぎょうなか戦場せんじょう駆り出かりだされいのちうしないました。78ねんとなることし、戦争せんそう生き延いきのび、戦後せんご平和へいわとうとさをうったえてきたもと学徒がくと相次あいついでくなりました。

本村もとむらつるさん 享年きょうねん97さい
沖縄おきなわ師範しはん学校がっこう女子じょしかよっていたときに、負傷ふしょうへい看護かんごにあたる「ひめゆり学徒隊ひめゆりがくとたい」として動員どういんされた本村もとむらつるさんはことし4つき老衰ろうすいのため97さいくなりました。
ひめゆり学徒隊ひめゆりがくとたい」は、動員どういんされた女子じょし生徒せいと教諭きょうゆあわせて240にんのうち、136にんいのちとしました。
つるさん戦後せんご教員きょういんになり、退職たいしょくしてからは、ひめゆり平和へいわ祈念きねん資料しりょうかん建設けんせつ中心ちゅうしんてき役割やくわりたし、2002ねんからおよそ8年間ねんかん館長かんちょうつとめました。
一方いっぽう戦場せんじょうでけがをした下級生かきゅうせい一緒いっしょれてげることができなかったことを生涯しょうがいやみ、自身じしん戦争せんそう体験たいけん積極せっきょくてきにはかたりませんでした。
体験たいけんしゃがいなくなる時代じだい見据みすえ、つぎ世代せだい育成いくせいちからそそいだ本村もとむらさんは、生前せいぜん、「わたしたちがくなったあともくなった学友がくゆう代弁だいべんしゃとして資料しりょうかんはたらけるひとことをわたしたちはおもい、そのひとたちをそだてなければいけない」とはなしていました。

中山なかやまきくさん 享年きょうねん94さい
県立けんりつだい高等こうとうおんな学校がっこうかよっていたときに「白梅はくばい学徒がくとたい」として動員どういんされた中山なかやまきくさんは、ことし1つき、がんのため94さいくなりました。
白梅はくばい学徒がくとたい」は看護かんご要員よういんとして訓練くんれんけた女子じょし生徒せいとたちで、動員どういんされた56にんのうち22にんいのちうしないました。
きくさんは、自身じしん体験たいけんけん内外ないがい精力せいりょくてきかたってきたほか、もと女子じょし学徒がくとたちで「青春せいしゅんかたかい」をげ、9つの女子じょし学徒がくとたい戦争せんそう記憶きおく記録きろくし、後世こうせいつたえるため尽力じんりょくしました。
きくさん生前せいぜん、「戦争せんそうというものをらなかったから国民こくみん戦争せんそう狂乱きょうらんした。二度にどおなあゆにしてはならず、戦争せんそう姿すがたつたえなくてはならない」とかたってました。
去年きょねん慰霊いれいひらかれた白梅はくばい学徒がくとたい慰霊いれいさいくるまいすって参列さんれつし、「戦争せんそう正義せいぎはない。話し合はなしあ解決かいけつするよう努力どりょくしていくことが大事だいじで、きているかぎりはうったつづけたい。戦争せんそう体験たいけんしゃだからこそ」とはなしていました。

沖縄おきなわせんでは、県内けんないの21の学校がっこうかよ10だい若者わかものたちあわせて2100にん以上いじょうが、きゅう日本にっぽんぐん負傷ふしょうへい看護かんご陣地じんち構築こうちくなどのため動員どういんされ、このうち1000にんあまくなりました。
ソース:NHK ニュース