Hiện Furigana
障害者殺傷事件から1年 胸の内を明かす遺族
2017-07-25 21:42:04
犠牲となった55歳の男性の家族が事件を起こした植松被告の考えを否定したいと手記を寄せました。
そこには「加害者は私の家族を生きている価値がない人間だといったがそれは違います。とても明るくて周囲を笑わせたり泣かせたり大切なことを教えたりできる人間でした。こういう人が生きている価値がないなんていえるでしょうか。私たち遺族に殺されてよかったなんて思う人は誰一人いません」と綴られています。
男性は喜怒哀楽が豊かで、言葉で表現するのは苦手でも声のトーンを使い分けて気持ちを伝えてくれたといいます。また、一度覚えたことは忘れず、家族の誕生日が来ればカレンダーを指さして「きょうだね」というように教えてくれたということです。体はとても健康で施設から届く健康診断の結果はよかったため、母親は「きっと親より長生きできるね」と喜んでいたといいます。
数年前までに亡くなった両親が近所の寺に男性の葬儀の代金を払っていたことを事件の後に知ったということで、「まさかこんな事件で両親を追いかけるように亡くなるなんて思っていなかったと思います」と話していました。家族は毎日、男性の仏壇に線香をあげ好きだったものを供えて、思い出話をして過ごしているということです。
植松被告が語った「障害者は生きる意味がない」という言葉に事件後、インターネット上で同調する人たちがいたことに家族は強いショックを受け、憤りを抱えてきました。そのうえで「事件直後は大きな騒ぎになりましたが、すぐに消えてしまい、いまは何もなかったように感じて怖いです。思い出したくはないけれど忘れて欲しくもありません」と話していました。
そこには「加害者は私の家族を生きている価値がない人間だといったがそれは違います。とても明るくて周囲を笑わせたり泣かせたり大切なことを教えたりできる人間でした。こういう人が生きている価値がないなんていえるでしょうか。私たち遺族に殺されてよかったなんて思う人は誰一人いません」と綴られています。
男性は喜怒哀楽が豊かで、言葉で表現するのは苦手でも声のトーンを使い分けて気持ちを伝えてくれたといいます。また、一度覚えたことは忘れず、家族の誕生日が来ればカレンダーを指さして「きょうだね」というように教えてくれたということです。体はとても健康で施設から届く健康診断の結果はよかったため、母親は「きっと親より長生きできるね」と喜んでいたといいます。
数年前までに亡くなった両親が近所の寺に男性の葬儀の代金を払っていたことを事件の後に知ったということで、「まさかこんな事件で両親を追いかけるように亡くなるなんて思っていなかったと思います」と話していました。家族は毎日、男性の仏壇に線香をあげ好きだったものを供えて、思い出話をして過ごしているということです。
植松被告が語った「障害者は生きる意味がない」という言葉に事件後、インターネット上で同調する人たちがいたことに家族は強いショックを受け、憤りを抱えてきました。そのうえで「事件直後は大きな騒ぎになりましたが、すぐに消えてしまい、いまは何もなかったように感じて怖いです。思い出したくはないけれど忘れて欲しくもありません」と話していました。
植松被告の考え否定したいと手記
犠牲となった55歳の男性の家族が事件を起こした植松被告の考えを否定したいと手記を寄せました。
そこには「加害者は私の家族を生きている価値がない人間だといったがそれは違います。とても明るくて周囲を笑わせたり泣かせたり大切なことを教えたりできる人間でした。こういう人が生きている価値がないなんていえるでしょうか。私たち遺族に殺されてよかったなんて思う人は誰一人いません」と綴られています。
男性は喜怒哀楽が豊かで、言葉で表現するのは苦手でも声のトーンを使い分けて気持ちを伝えてくれたといいます。また、一度覚えたことは忘れず、家族の誕生日が来ればカレンダーを指さして「きょうだね」というように教えてくれたということです。体はとても健康で施設から届く健康診断の結果はよかったため、母親は「きっと親より長生きできるね」と喜んでいたといいます。
数年前までに亡くなった両親が近所の寺に男性の葬儀の代金を払っていたことを事件の後に知ったということで、「まさかこんな事件で両親を追いかけるように亡くなるなんて思っていなかったと思います」と話していました。家族は毎日、男性の仏壇に線香をあげ好きだったものを供えて、思い出話をして過ごしているということです。
植松被告が語った「障害者は生きる意味がない」という言葉に事件後、インターネット上で同調する人たちがいたことに家族は強いショックを受け、憤りを抱えてきました。そのうえで「事件直後は大きな騒ぎになりましたが、すぐに消えてしまい、いまは何もなかったように感じて怖いです。思い出したくはないけれど忘れて欲しくもありません」と話していました。
そこには「加害者は私の家族を生きている価値がない人間だといったがそれは違います。とても明るくて周囲を笑わせたり泣かせたり大切なことを教えたりできる人間でした。こういう人が生きている価値がないなんていえるでしょうか。私たち遺族に殺されてよかったなんて思う人は誰一人いません」と綴られています。
男性は喜怒哀楽が豊かで、言葉で表現するのは苦手でも声のトーンを使い分けて気持ちを伝えてくれたといいます。また、一度覚えたことは忘れず、家族の誕生日が来ればカレンダーを指さして「きょうだね」というように教えてくれたということです。体はとても健康で施設から届く健康診断の結果はよかったため、母親は「きっと親より長生きできるね」と喜んでいたといいます。
数年前までに亡くなった両親が近所の寺に男性の葬儀の代金を払っていたことを事件の後に知ったということで、「まさかこんな事件で両親を追いかけるように亡くなるなんて思っていなかったと思います」と話していました。家族は毎日、男性の仏壇に線香をあげ好きだったものを供えて、思い出話をして過ごしているということです。
植松被告が語った「障害者は生きる意味がない」という言葉に事件後、インターネット上で同調する人たちがいたことに家族は強いショックを受け、憤りを抱えてきました。そのうえで「事件直後は大きな騒ぎになりましたが、すぐに消えてしまい、いまは何もなかったように感じて怖いです。思い出したくはないけれど忘れて欲しくもありません」と話していました。
娘の遺影に声をかける毎日
事件で犠牲となった26歳の女性の母親が懸命に生きてきた娘のことを伝えたいと初めてカメラの前で語りました。
26歳の娘を失った母親は「今も娘がそばにいるような気がして、出かけるときは娘の遺影にいってくるねと言い帰ってきたらただいま、きょうはこんなことがあったよなどと声をかける毎日です」と話しました。
3歳で自閉症と診断された娘は、言葉で伝えることは苦手でしたが、態度で気持ちを伝えてくれたといいます。母親は娘の成長をつぶさに写真に記録してきたということで、事件のあと幼いころからの娘の写真を見ながら、26年間を振り返っています。
母親は「親ばかかもしれませんが二重あごになっている写真もかわいいです。好きな写真を並べて成長をたどっていると涙が出てきます。娘が大好きだったのです」と語りました。
娘が高校生のころ夫の病気や親の介護が重なり母親は体調を崩して長期入院したため、世話が出なくなり施設で暮らすようになりました。頻繁に会いにいけない中で、施設から届く便りに記された娘の様子をメモに書き留めて大切にしてきました。
そこには納涼祭でじんべいを着せてもらったことや山梨に行ってぶどうをおいしそうに食べ、笑顔が多く見られたことなどが記されています。また、事件のあと娘が人気バンド、スピッツの「チェリー」という曲を気に入っていたことを知ったため、その曲を繰り返し聴いているということです。
母親は、「今は少し落ち着いているのですが、少し前は本当に私もそっちにいきたいと思っていました。でもあまり、泣いてばかりいると娘が『お母さん、頑張って』と言うような気がして、一生懸命生きています」と語りました。
自分の心境を綴った手記には「娘の事を思い出さない日はありません。よくそばによりそって甘えてきたね。そんなあなたとともに一緒に歩んで来ました。
今、思うと、もっといっぱい遊んであげればよかった。もっと思いをわかってあげたかった。心残りがいっぱいあります」と記しています。
そして最後に、「きらきらした瞳で多くの人に安らぎをあたえてくれいろんな人に力をくれ愛されていたのに何でこんなことになってしまったのか、あまりにもひどすぎる。障害を持っているのはとても大変だけれど、望んで障害者になったわけではない。偏見を持たないでほしい。障害者がいやでもいらない命はないのです。けっして傷づけたり殺してはならない。絶対に」と綴っています。
26歳の娘を失った母親は「今も娘がそばにいるような気がして、出かけるときは娘の遺影にいってくるねと言い帰ってきたらただいま、きょうはこんなことがあったよなどと声をかける毎日です」と話しました。
3歳で自閉症と診断された娘は、言葉で伝えることは苦手でしたが、態度で気持ちを伝えてくれたといいます。母親は娘の成長をつぶさに写真に記録してきたということで、事件のあと幼いころからの娘の写真を見ながら、26年間を振り返っています。
母親は「親ばかかもしれませんが二重あごになっている写真もかわいいです。好きな写真を並べて成長をたどっていると涙が出てきます。娘が大好きだったのです」と語りました。
娘が高校生のころ夫の病気や親の介護が重なり母親は体調を崩して長期入院したため、世話が出なくなり施設で暮らすようになりました。頻繁に会いにいけない中で、施設から届く便りに記された娘の様子をメモに書き留めて大切にしてきました。
そこには納涼祭でじんべいを着せてもらったことや山梨に行ってぶどうをおいしそうに食べ、笑顔が多く見られたことなどが記されています。また、事件のあと娘が人気バンド、スピッツの「チェリー」という曲を気に入っていたことを知ったため、その曲を繰り返し聴いているということです。
母親は、「今は少し落ち着いているのですが、少し前は本当に私もそっちにいきたいと思っていました。でもあまり、泣いてばかりいると娘が『お母さん、頑張って』と言うような気がして、一生懸命生きています」と語りました。
自分の心境を綴った手記には「娘の事を思い出さない日はありません。よくそばによりそって甘えてきたね。そんなあなたとともに一緒に歩んで来ました。
今、思うと、もっといっぱい遊んであげればよかった。もっと思いをわかってあげたかった。心残りがいっぱいあります」と記しています。
そして最後に、「きらきらした瞳で多くの人に安らぎをあたえてくれいろんな人に力をくれ愛されていたのに何でこんなことになってしまったのか、あまりにもひどすぎる。障害を持っているのはとても大変だけれど、望んで障害者になったわけではない。偏見を持たないでほしい。障害者がいやでもいらない命はないのです。けっして傷づけたり殺してはならない。絶対に」と綴っています。
「意思疎通ができないというのは違う」
事件で犠牲となった35歳の女性の父親と兄が初めてカメラの前で胸のうちを語りました。父親は娘の写真を見せながら、「娘を思い出さない日はありませんでした」と話しました。
去年7月、相模原市の知的障害者施設、津久井やまゆり園で入所者19人が殺害され、27人が重軽傷を負った事件では、元職員の植松聖被告(27)が「障害者は不幸をつくることしかできない」、「意思疎通がとれない障害者は生きていてもしかたがない」などと供述しました。
これまで19人の遺族は、事件の衝撃や差別へのおそれなどからカメラの前で語ることはありませんでした。しかし、事件から1年を前にした今月中旬、犠牲となった35歳の女性の父親が写真を見せながら初めてカメラの前で胸のうちを語りました。
父親は「この1年、娘のことを思い出さない日はありませんでした。娘が亡くなったのは施設に預けた自分のせいです。毎日、遺影にごめんねと語りかけてきました。自宅で一緒に風呂に入ったことやだっこをせがまれたことをふと思い出し、おえつします。だっこをすると妻のほうを向いて『お父さんは私のほうが好きなんだよ』という得意気な表情をしていました。めちゃめちゃかわいかったです。事件の3週間ほど前にやまゆり園で最後に娘と会った際、だっこしてあげられなかったことが今も心残りです」と話しました。
殺人などの罪で起訴された植松聖被告については、「裁判を見たいとは思いません。被告の言葉を聞いても娘は戻ってきません。やったことの事実で裁判所に判断してもらえればと思います」と話しました。
また、女性の兄も取材に応じ、「妹は『長くは生きられない』と言われ続けてきました。一緒に遊んでいたときに発作を起こして救急車で運ばれたこともあり常に気がかりでした。それでも危ない時期を何度も乗り越えて30歳を越え、人生をまっとうすると信じていました。それが最後、ああいう形になりありえないです」と無念の思いを語りました。
そして、植松被告が語った「意思疎通ができない障害者を狙った」という言葉について「妹は自己主張が強く、意思疎通ができないというのは違います。『コーヒーが飲みたい』と甘えてきて、あげれば『まずい』と言ったり『まあいいんじゃないか』といった表情をしていました。遊んでほしいとか、嫌なことは嫌だとか、意思をしっかり表しました。被告は何を言っているのかさっぱりわかりません」と述べました。
去年7月、相模原市の知的障害者施設、津久井やまゆり園で入所者19人が殺害され、27人が重軽傷を負った事件では、元職員の植松聖被告(27)が「障害者は不幸をつくることしかできない」、「意思疎通がとれない障害者は生きていてもしかたがない」などと供述しました。
これまで19人の遺族は、事件の衝撃や差別へのおそれなどからカメラの前で語ることはありませんでした。しかし、事件から1年を前にした今月中旬、犠牲となった35歳の女性の父親が写真を見せながら初めてカメラの前で胸のうちを語りました。
父親は「この1年、娘のことを思い出さない日はありませんでした。娘が亡くなったのは施設に預けた自分のせいです。毎日、遺影にごめんねと語りかけてきました。自宅で一緒に風呂に入ったことやだっこをせがまれたことをふと思い出し、おえつします。だっこをすると妻のほうを向いて『お父さんは私のほうが好きなんだよ』という得意気な表情をしていました。めちゃめちゃかわいかったです。事件の3週間ほど前にやまゆり園で最後に娘と会った際、だっこしてあげられなかったことが今も心残りです」と話しました。
殺人などの罪で起訴された植松聖被告については、「裁判を見たいとは思いません。被告の言葉を聞いても娘は戻ってきません。やったことの事実で裁判所に判断してもらえればと思います」と話しました。
また、女性の兄も取材に応じ、「妹は『長くは生きられない』と言われ続けてきました。一緒に遊んでいたときに発作を起こして救急車で運ばれたこともあり常に気がかりでした。それでも危ない時期を何度も乗り越えて30歳を越え、人生をまっとうすると信じていました。それが最後、ああいう形になりありえないです」と無念の思いを語りました。
そして、植松被告が語った「意思疎通ができない障害者を狙った」という言葉について「妹は自己主張が強く、意思疎通ができないというのは違います。『コーヒーが飲みたい』と甘えてきて、あげれば『まずい』と言ったり『まあいいんじゃないか』といった表情をしていました。遊んでほしいとか、嫌なことは嫌だとか、意思をしっかり表しました。被告は何を言っているのかさっぱりわかりません」と述べました。
ソース:NHK ニュース