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旧日本軍の“Uボート” 京都府沖の若狭湾で発見
2018-07-03 08:18:59

太平洋戦争中にナチスドイツから旧日本海軍に譲渡された「Uボート」と呼ばれる潜水艦が京都府沖の若狭湾で見つかりました。調査を行ったチームは戦時中の技術協力の実態を知るうえで重要な発見だとしています。
九州工業大学などの調査チームは、アメリカ軍の記録などにもとづいて、先月18日から4日間、京都府舞鶴市の沖合20キロ余りの若狭湾の海底を無人潜水機などで調べました。
その結果、深さおよそ90メートルのところに旧日本海軍の潜水艦3隻を見つけ、撮影に成功しました。このうち1隻は艦首の特徴などから、ナチスドイツの「Uボート」で、旧日本海軍が「呂500」と名前をつけた潜水艦と確認できたと言うことです。
「呂500」は太平洋戦争中の昭和18年、技術協力の目的で同盟国のドイツから譲渡され、およそ90日間の航海の末、広島県呉市に到着しました。主に訓練に使われ、終戦のよくとし、アメリカ軍によって沈められ処分されました。
調査チームによりますと、全長70メートルある船体に大きな破損は見られず、ほぼ原型をとどめているということです。また、ほかの2隻は、南太平洋の戦いなどに参加した「呂68」と「伊121」と確認できたということです。
調査チームの九州工業大学の浦環特別教授は会見で「記録どおりに3隻が見つかった。日本とドイツの間では技術や人の交流を目的に潜水艦が使われたが途中で撃沈されて到着できなかったものも多い。呂500は状態もよく、戦時中の技術協力の実態を知る上で重要で、今後詳しく分析をしたい」と話しています。

その結果、深さおよそ90メートルのところに旧日本海軍の潜水艦3隻を見つけ、撮影に成功しました。このうち1隻は艦首の特徴などから、ナチスドイツの「Uボート」で、旧日本海軍が「呂500」と名前をつけた潜水艦と確認できたと言うことです。
「呂500」は太平洋戦争中の昭和18年、技術協力の目的で同盟国のドイツから譲渡され、およそ90日間の航海の末、広島県呉市に到着しました。主に訓練に使われ、終戦のよくとし、アメリカ軍によって沈められ処分されました。
調査チームによりますと、全長70メートルある船体に大きな破損は見られず、ほぼ原型をとどめているということです。また、ほかの2隻は、南太平洋の戦いなどに参加した「呂68」と「伊121」と確認できたということです。
調査チームの九州工業大学の浦環特別教授は会見で「記録どおりに3隻が見つかった。日本とドイツの間では技術や人の交流を目的に潜水艦が使われたが途中で撃沈されて到着できなかったものも多い。呂500は状態もよく、戦時中の技術協力の実態を知る上で重要で、今後詳しく分析をしたい」と話しています。
”Uボート”「呂500」とは

「呂500」は、昭和16年、ナチス・ドイツが建造したUボートで、ドイツでは「Uー511」と呼ばれていました。大西洋を航行するアメリカやイギリスの商船を攻撃して輸送を妨害する作戦に参加し、その後、同盟を結んでいた日本に対し、技術協力の一環で譲渡が決まりました。
「Uー511」は、ドイツ軍の技術者のほか、日本に着任するドイツ大使や、帰国する日本軍将校も乗せていたとされ、ドイツを出航し、南アフリカの喜望峰を回ってインド洋を航行し、およそ90日間かけて広島県呉市に到着しました。その後、日本海軍の潜水艦となり、「呂500」と名付けられました。
当初、日本海軍はUボートの技術を取り入れ新しい潜水艦の量産を検討したものの物資不足などから実現しなかったとされ、「呂500」は、主に訓練用として使われ、終戦のよくとし、アメリカ軍によって海に沈められ処分されました。戦争が激しさをます中、日本とドイツの間の行き来は、陸路や空路での移動が難しくなり潜水艦が数少ない手段となっていましたが、ほとんどの潜水艦が途中で撃沈されたと言われています。
「Uー511」は、ドイツ軍の技術者のほか、日本に着任するドイツ大使や、帰国する日本軍将校も乗せていたとされ、ドイツを出航し、南アフリカの喜望峰を回ってインド洋を航行し、およそ90日間かけて広島県呉市に到着しました。その後、日本海軍の潜水艦となり、「呂500」と名付けられました。
当初、日本海軍はUボートの技術を取り入れ新しい潜水艦の量産を検討したものの物資不足などから実現しなかったとされ、「呂500」は、主に訓練用として使われ、終戦のよくとし、アメリカ軍によって海に沈められ処分されました。戦争が激しさをます中、日本とドイツの間の行き来は、陸路や空路での移動が難しくなり潜水艦が数少ない手段となっていましたが、ほとんどの潜水艦が途中で撃沈されたと言われています。
ソース:NHK ニュース