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、さらに的を立てかけた串を射抜くよう難題を押し付けてきたが、盛澄は見事に全て射抜いたため、赦免された。この時、景時が同じく捕縛された義仲の郎党達にも寛恕を施して欲しい、と頼朝に願い出て、その郎党達もまた助命され、御家人に列した(『吾妻鏡』文治3年8月15日条)。これらの顛末は『諏訪大明神絵詞』でも描写されている。
平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年〈明治28年〉2月15日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の国史学者。文学博士。専門は日本中世史。東京帝国大学教授。号は布布木の屋、寒林子、白山隠士[要出典]。 福井県出身の国史学者。東京帝国大学教授、平泉寺白山神社第4代宮司、皇學館大学学
平 常澄(たいら の つねずみ)は、平安時代後期の武士。上総氏3代当主。平常晴の子。子に上総広常などがいる。諱は常隆、常高、常尊、また名を上総常澄とも。生年は不明。確実な史料には前権介としかみえないが、諸系図には「上総介」とみえる。 佐賀六郎、もしくは相馬六郎と号した(このことから六男であるこ
盛子が准母となっていた高倉天皇の権威を盾に基房の抵抗を封じ込めると同時に、基通が成長して関白・氏長者になるまでの時間稼ぎと見られる。 この措置に不満を募らせた松殿基房は、氏長者として遺領相続の権利があることを後白河院に訴える。『愚管抄』には白川殿ウセテ一ノ所ノ家領文書ノ事ナド松殿申サルル旨