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元2年(480年)、建康に召還されて侍中・中軍将軍の位を受け、府を置き、石頭に駐屯した。母の裴恵昭が死去すると、長懋は侍中の任を解かれて喪に服した。哀哭のあまり病にかかったため、石頭山から西州に移された。建元4年(482年)、使持節・都督南徐兗二州諸軍事・征北将軍・南徐州刺史に任じられた。
2羽のウサギを献上して、宣徳帝に喜ばれ、帝自らが描いた馬の絵を賜った。陳懋は寧夏に駐屯すること久しく、威名は漠北に鳴り響いた。宣徳帝の信任を頼みに勝手気儘に振る舞い、巨万の財産を蓄えた。たびたび弾劾を受けたが、宣徳帝は曲げてこれを許し、陳懋の不正に蓄えた財産を没収するよう命じた。
懋(おう ぼう、515年 - 559年)は、中国の西魏・北周の軍人。字は小興。本貫は楽浪郡。開皇7年(587年)作王懋墓誌に「其先世有入仕於魏者,重復加拓,遂為拓王氏焉」とあり、複姓を称していることから胡族とみられる。 王盟の子として生まれた。王盟が関中に入ったとき、王懋はまだ幼く、山東にとどまっ
た。子響は膂力にすぐれ、4斛の弓を引いた。たびたび竹樹の下を駆け回って、怪我ひとつ負うことがなかった。車服の制は諸王に劣っていたため、入朝するたびに怒って、拳で車壁を撃った。武帝はこれを知って、車服を皇子たちと同じにさせた。 永明3年(485年)、右衛将軍に転じた。使持節・都督豫州郢州之西陽司州之汝