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がなく、書簏(本の入れ物。本を読むだけで身についていない人)というあだ名がついていたとする。また、李善がはじめ『文選』注をつくったとき、事柄の説明のみで文意を説明できていなかったので、子の李邕が文義がわかるように補い、李善の注と李邕の注が
承慶を降伏させる。高適・来瑱・韋陟は軍を安陸に集め、永王の討伐を誓う。 757年、粛宗は宦官の啖廷瑶を派遣して、李成式と謀らせて河北招討判官の李銑と兵を合わせて、永王に向かわせる。永王は対岸に軍を並べる。李成式は判官の裴茂に旗を長大に並べさせたため、永王は恐れるに至る。そのため、季広琛・渾惟明・馮
李 弘(り こう)は、中国・唐の皇太子。父は3代皇帝高宗、母は武照(武則天)。はじめ代王。義宗の廟号と孝敬皇帝の諡号を贈られた。同母弟に李賢(章懐太子)、4代皇帝中宗、5代皇帝睿宗らがいる。 高宗と武照との長男として生まれる。李弘の生年に関しては諸説あるが、同母実弟の李
次いで睿宗が復位すると、皇太子の地位に復して章懐の諡号を贈り、唯一生き残っていた息子である次男李守礼(中国語版)を邠王に封じた(長男李光順は先に誅殺され、三男李守義も病死していた)。 李守礼には多くの子(したがって李賢の孫)があったが、唐の歴史上重要な人物に以下があった。 広武王李承宏(中国語版)