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盛子が准母となっていた高倉天皇の権威を盾に基房の抵抗を封じ込めると同時に、基通が成長して関白・氏長者になるまでの時間稼ぎと見られる。 この措置に不満を募らせた松殿基房は、氏長者として遺領相続の権利があることを後白河院に訴える。『愚管抄』には白川殿ウセテ一ノ所ノ家領文書ノ事ナド松殿申サルル旨
兼盛(たいら の かねもり)は、平安時代中期の貴族・歌人。臣籍降下前は兼盛王と称す。光孝平氏、筑前守・平篤望または大宰大弐・平篤行の三男。官位は従五位上・駿河守。三十六歌仙の一人。 『尊卑分脈』によると、光孝天皇の玄孫として以下の系譜となっている。 光孝天皇-是忠親王-興我王-平篤行-平兼盛
の妻の小宰相も夫の後を追って入水自殺してしまう。子たちを失った教盛の身辺は心細いものになった。 その後、平家は屋島の戦いに敗れ、長門国彦島に逃れた。そして寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いが行われ、平家は力尽きて敗北。二位尼(清盛の妻)と安徳天皇をはじめ、平家の
き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。 父の正盛は白河法皇に北面武士として仕え、源義親の追討で武名を上げた。一方で源義忠に息女を娶わせるなど、先行の軍事貴族である河内源氏とも連携を図り、義忠は忠盛の烏帽子親となっている。義忠死後に河内源氏が衰退するのと入れ替