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譜代、1万石 平岡道弘(みちひろ) 陣屋は東北は山が囲み、南に鏡ヶ浦が広がる要害の地で、表門は西に谷束街道に面し、裏門は東に配され、東南に幅6mほどの堀が巡らされていたが、陣屋は未完成のまま荒廃した。大正頃には裏門や獄屋などの遺構があったというが、現在では船形漁港に接する民有地になっており、石垣や堀を残し
山形藩の藩祖は戦国時代よりこの地を支配していた最上義光である。最上氏は室町幕府より羽州探題を任じられた斯波兼頼を祖とする名門だが、戦国時代に入ると一族間の相続争いと重臣間の対立、隣国伊達氏の内政干渉などにより衰退していた。この中で最上氏第11代として登場したのが義光
したが効果はなく、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こった。 第5代藩主・織田信守はこのような中で奢侈に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨んだ
島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩。初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれる。藩庁は初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)。徳川譜代の高力氏、十八松平の深溝松平家が配され天領である長崎の監督、譜代の小倉藩と同様、九州の外様大名に対する目付役を担った。 島原