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鎌倉中期に鹿角に入部し、室町~戦国期にかけては安東氏や津軽氏と結び、永禄元年(1558年)安東愛季の誘いに応じ名代の大高筑前と見参したり、同8年(1566年)秋田方の廻文に加判を行った一人として名を連ね、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあり、天正17年(1589年)南部信直の比内大館城攻めにはその麾下を務めている。
清和源氏の足利義兼の子桃井義胤が桃井氏の祖となり、義胤四世桃井尚義の孫の桃井義盛の弟、河内守桃井貞職が母方の湯浅姓を名乗ったという(『湯浅家系図』)。山子田御堀に中世の館跡があり、本家はこの一角に居を構え、今でも御掘の家といわれる。 代々名主で榛名山中腹のに仕え、吾妻山の吾妻神社を奉祀、祭祀も司る。一族からは、1868年(明治元年)、
河野為時 河野時孝 河野為綱 河野親孝 河野親経 河野親清 河野通清 河野通信 河野通久 河野通継 河野通有 河野通盛 河野通朝 河野通堯 河野通義 河野通之 河野持通 河野教通 河野通春 河野通宣(刑部大輔) 河野通直(弾正少弼) 河野晴通 河野通宣(左京大夫) 河野通直(伊予守) 河野通軌 凡例
た場合の事を考えればこの時点で平家方に行く事は考え難い。また、三女の夫・江間小四郎は頼朝に殺された。 他方、祐経は早期に頼朝に味方したことから、その君寵が厚く、その反面、数多くの御家人から妬まれた。そして、祐経は、成長した祐泰の遺児である一萬・箱王兄弟改め曾我祐成・曾我時致によって父の仇として討たれ