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甥の康宗王継鵬の在位中には左僕射・同平章事に任じられるが、王継鵬は猜忌心が強かったために身の危険を感じ、発狂者を装い自宅に軟禁されていた。通文4年(939年)、拱宸・控鶴軍使の朱文進・連重遇が叛乱を起こし王延羲を推戴し王継鵬を殺害したことにより、王延羲は威武軍節度使・閩国王を称し、王曦と改名、永隆と改元した。即位した景宗は後晋に奉表している。
もまた即位後は放漫財政を行い、民衆の生活は非常に苦しいものとなっていた。 同年、朱文進・連重遇が王延羲を殺害し、朱文進が閩主に即位する事件が発生する。これに対し、王延政は建州より討伐軍を発するが、朱文進・連重遇は林仁翰により殺害された。 天徳3年(945年)、諸臣は王延政に福州に戻り、閩の国号を復活
b 赤坂恒明 2015, p. 37. ^ 『朝日日本歴史人物事典』 ^ 廣橋家旧蔵記録文書典籍類H63-409『後法性寺殿御抄』雑々例 ^ a b c 『賜姓例並褰帳女王』賜姓例「延信王」(宮内庁書陵部所蔵) ^ 『尊卑分脈』 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年 赤坂恒明「冷泉源氏・花山王氏考 :
承した。当初は後唐より威武軍節度使に任じられただけであったが、天成元年(926年)に大閩国王に封じられた。 史書の伝えるところによれば、嗣王の性格は驕傲荒淫かつ残忍凶暴であり、また兄弟に民間の女性を強引に後宮に連れて来させるなどの暴政を尽くし、その結果同年に弟の王延鈞及び王審知の養子である王延稟の叛