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明和2年(1765年)7月内助手柄淵、8月、歌舞伎芝居になる。 明和3年(1766年)冬、此太夫が北堀江市の側に豊竹座を再建。 明和4年(1767年)1月「星兜弓勢鑑」、12月、「染模様妹背門松」菅専助 明和5年(1768年)「潤色江戸紫」「忠孝大磯通」専助。11月、豊竹筑前少掾死去。 明和7年(1770年)9月19日、道頓堀に豊
組み入れる。洋画封切りとOSK・SKDのレビューが興行された。戦後廃座。末広座 (名古屋市)と名古屋松竹座の項を参照。 京都松竹座 - 京都新京極六角下ルに存在した。定員885人。元々は芝居小屋の常盤座。焼失後に明治座となり、これも焼失した後に松竹座チェーンに組み入れ
った。当時の様子は、前島豊太郎観活動写真記(『頼古文集』)に記録が残っている。観覧料は4等級に分かれていた。上映された内容は、エジソンの工場前で撒水する風景、ナイアガラ瀑布、フランス陸軍大学校の騎兵隊演習、ロシア皇帝戴冠式、フランスのパリ市街、アメリカの女優ロイ・フラーの映像などで、観客はそれらにいたく驚嘆したという。
戦後のある時期までは、文楽の側に竹本を低く見る意識がつよく、歌舞伎に出ることは義太夫にとって身をおとすという意識がつよかった。文楽と竹本にさまで大きな内容的相違がないにもかかわらず、これを明確に区分しようとする意識がつよいのはこうした階級意識によるところが大きい。現在でも文楽座の太夫、三味線方が歌舞伎に出演する際に