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東へ追いやられ、その威徳は遠方まで及びません。中原の動乱を救済するには、明公(慕容廆)といえども力不足です。今、諸部は各々軍備を擁しているとは言え、頑愚な連中の集まりですから、次第に蚕食していくべきです。これらを併合して領土を増やし、西方を平らげる足掛かりとしますようにと進言すると、慕容廆は壮大
抱嶷は生前に従弟の抱老寿を後嗣として立てていたが、また別に太師の馮熙の子の次興を養子に迎えており、抱嶷の死後に2人は跡目を巡って争った。抱嶷の妻の張氏の推す次興が勝訴して、いったん後嗣と決まったが、老寿がまたも提訴して、最終的に爵位を嗣いだ。次興は馮氏の本家に帰った。老寿
曹嶷は前趙朝廷への貢物を絶やすようになり、徐々に朝廷と距離を取るようになり、やがてかつて斉国が栄えた土地で王となる野心を抱いた。 石勒は漢の皇帝劉聡に曹嶷討伐を求めたが、石勒の勢力は既に漢国の統治を脅かす程強大であったため、劉聡は警戒して許可しなかった。そのため方針を
しげたか、宝暦6年(1756年)9月3日 - 天保7年(1836年)12月17日)は、江戸時代中期・後期の武士である。上野国伊勢崎藩家老。字は子岐。通称は助之丞。号は喚醒、睡峒。名はしげさととも読む。関当義(まさよし)の子。 山崎闇斎派の村志玉水に朱子学を学び、安永3年(1774年)藩校学習堂が創設されると学頭に就いた。