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遠藤巌雄勝郡地頭小野寺氏秋田県文化財保護協会『出羽路』92、1988年 遠藤巌「戦国大名小野寺氏」『秋大史学』34、1988年 遠藤巌「中世期の出羽国平鹿郡の領主と領域」『宮城教育大学紀要』34、1998年 佐藤一幸「戦国末期雄勝郡西馬音内領の構造」『秋大史学』37、1991年 伊藤清郎・山口博之編『中世出羽の領主と城館』高志書院、2002年(平成4年)2月
氏寺のみならず、氏を構成する「家」それぞれにも氏寺(家寺と呼ぶべきか)が持たれるようになり、それぞれ氏や家に応じた仏事を執り行うようになった。 仏事といった信仰的・宗教的行為の役割のみならず、氏寺の存続・発展の為の荘園経営や、本来主人たる氏や家へ対しての経済援助や助言といった活動を行う氏寺
本陣寺村家の家紋は五段梯子(はしご)であるが、『綱要日本紋章学』(昭和52年)[要ページ番号]によれば、「土佐山内氏家臣寺村氏が、梯子を用ひて天正十八年山中城に乗り込んだ武功を紀念するために用ひた」のが梯子紋の歴史上の登場とされている。
弘治3年(1557年) この頃より神箆城主の延友信光(土岐三兵衛)と不和になる。 永禄8年(1565年)には高野口(神篦城付近)で織田方(森長可)・武田方(秋山虎繁)両軍の軍事衝突が起こった(高野口の戦い)。その際に光忠・光次は信長に従い、秋山虎繁の軍を撃退した。