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儀(従一品嬪)にいたった。 真宗が崩ずると、順容(従一品嬪)に進封され、園陵の奉仕にあたった。明道元年(1032年)、病が重くなり、宸妃の位に進められて、まもなく2月に死去した。翌年、皇太后劉氏も崩じると、仁宗ははじめて李宸妃が実母であったことを知り、深く哀悼した。李宸
選入内廷、侍我皇考恭勤懋著。天啓三年十二月初三日冊封為荘妃、四年十月二十六日辰時以疾薨。距其生万暦十六年十月十七日亥時、享年三十七歳。惟妃徳性温良、儀容敬慎、我皇考重之、隆眷特嘉。今上追思皇考之意、典礼優異、茲復諡曰恭懿。以天啓四年十二月二十六日葬於翠微山之原。生栄死哀、夫復何憾。儒臣奉志幽宮用垂不朽云。
阿果(後の天祚帝)の妃として宮中に入り、燕国妃に封じられた。耶律撻魯を生んだ。乾統3年(1103年)、徳妃となった。耶律撻魯は燕国王となり、徳妃には賛翼の号を加えられた。乾統4年(1104年)春、耶律撻魯が早逝すると、まもなく徳妃も死去した。 北遼の耶律淳の徳妃蕭普賢女。保大2年(1122年)6月、
堂草木疏記之』を書き、また、彼の没後との庭園が人手に渡ることをおそれて『平泉山居戒子孫記』を書き残した。 『次柳氏旧聞』1巻 『西南備辺録』13巻(佚) 『会昌一品集』20巻 特に『会昌一品集』は、李徳裕が宰相として手腕をふるった6年間に書いた制・詔・上奏文などをまとめたものである。ここには彼が処