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成り上がり者であったため、清廉なことで知られていた王蕃から軽蔑されているのではと、疑っていたという。 濮陽興と張布らを孫晧に讒言し失脚させた。その後、右丞相となり、宝鼎2年(267年)に巴丘の守備を任されるなど、孫晧から重用された。宮中の責任者
司徒公となった。爾朱世隆が洛陽の北で反乱を起こすと、元彧は孝荘帝の命を受けて河陰を守備した。12月、爾朱兆が大軍を率いて洛陽にやってくると、元彧は東掖門から出たところを、爾朱兆の兵に捕らえられた。爾朱兆と面会したが、屈する様子を見せず、爾朱兆の部下たちに殴打されて殺害された。孝武帝のとき、太師・太尉公・雍州刺史の位を追贈された。
『どの子も書ける詩の指導』東洋館出版社 1990 『大谷地下軍需工場の青春 中島飛行機・動員学徒の手記』随想舎 1995 『私の出会ったすてきな親りっぱな先生 こう育てれば良い子が育つ!』下野新聞社 2000 『われら国民学校六年生 昭和十六年、宇都宮』下野新聞社 2002 『学校と家庭を結ぶ教育』上岡朋一他共著
軍する。紀霊は関羽との一騎打をした際に30合余り戦うと陣へ戻り、その後荀正に関羽に当たるよう命じている。 荀正自身はかなり乗り気で、関羽を名も無き末輩と挑発して出撃する。しかし、その挑発に怒った関羽に1合で斬り捨てられて果ててしまう。荀正を討ち取った勢いで劉備軍は、一気に紀霊軍を押し返している。