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堀 親家(ほり ちかいえ、? - 建仁3年9月5日(1203年10月11日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の伊豆国の武士。通称は藤次。系譜は不明だが、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵当初から側近として仕えており、山木兼隆襲撃、石橋山の戦いにも加わっている。
をあいしたかへ、いとみたたかひて首級を得、すなはち、上意に達す、(『寛永諸家系図伝』)とあるように、会津の上杉氏が越後で仕掛けた上杉遺民一揆の鎮圧に奔走する。この功により、徳川家康、秀忠から感状を賜る。感状には羽柴美作守殿とあり、この頃はまだ羽柴を称していた。戦後、家康から所領を安堵された。
第7代藩主堀親長の四男。正室は内藤信凭の娘、継室は浅野長員の娘。幼名・幸之進。初名・親幸。官位は従五位下、大和守。 天明4年(1784年)、兄で8代藩主の親忠が早世したため、養子となって家督を相続した。しかし、寛政8年(1796年)に死去した。男子がなかったため、弟の親寚が養子となって跡を継いだ。
妻には死別され、その間に生まれた7人の子女全てに先立たれた。このため、親常を養嗣子に迎えた。貞享2年(1685年)11月18日、越後高田城の在番中に瘧にかかって死去した。享年46。跡を親常が継いだ。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 父母 堀親昌(父) 浄心院 - 三条西実条の娘(母) 正室、継室 貞安院