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狂した前田利昌によって秀親が殺害された。このため柳本藩は改易の危機を迎えたが、家老たちが機転を利かせて秀親は病死ということにして、弟の成純を養嗣子として跡を継がせ、改易の危機を脱した。 江戸時代中期頃になると、小藩の悲しさから藩財政の窮乏化が表面化する。このため領民に重税を敷いたが、第10代藩主・織
柳生藩(やぎゅうはん)は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生家(江戸柳生家)は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。藩庁は柳生陣屋。 藩祖である宗矩の死後、1万2500石の所領は、有名な長男の柳生三厳(十兵衛)に8300石、三男
白河藩(しらかわはん)は、江戸時代に陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した藩。藩庁は白河城。支藩として、一時期存在した白河新田藩がある。 白河の地は、古代においては白河の関が設けられ、奥羽地方への出入り口として要衝の地となっていた。江戸時代になっても白河藩の締める地位は奥羽地方の外様
整備を行なっている。慶長17年(1612年)に常陸笠間へ移封となった。雀神社の社殿造営。 武蔵国本庄より小笠原信之が1万石加増の2万石で入った。家康覇業の功臣で徳川四天王として知られる酒井忠次の三男であり、小笠原秀政の同族信嶺の養子である。信之は入部してから2年後の慶長19年(1614年)に45歳で