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儀(従一品嬪)にいたった。 真宗が崩ずると、順容(従一品嬪)に進封され、園陵の奉仕にあたった。明道元年(1032年)、病が重くなり、宸妃の位に進められて、まもなく2月に死去した。翌年、皇太后劉氏も崩じると、仁宗ははじめて李宸妃が実母であったことを知り、深く哀悼した。李宸
庶民の李柰の娘に生まれた。美しかったので、隆慶4年(1570年)2月に徳妃となった。父の李柰は正五品錦衣衛千戸に任じられた。 隆慶6年(1572年)、隆慶帝が崩御した。以後、徳妃は仁寿宮で60年、寡居の生活を送った。崇禎5年(1632年)、薨去した。栄恪と諡され、金山に葬られた。 『明穆宗実録』 『崇禎長編』 『宝日堂雑鈔』
ᡥᡡᠸᠠᠩ ᡤᡠᡳᡶᡝᡳ 転写:tob ijishūn hūwang guifei、道光2年(1822年) - 同治5年(1866年))は、清の第8代皇帝道光帝の側室で、第11代皇帝光緒帝の祖母。満洲正黄旗の出身。姓はウヤ(烏雅)氏(Uya hala)。筆貼式(七品以下の文員)の霊寿(リンシェウ)の娘。母は妾の翁氏。
貴人の妻を敬っていう語。 おきさき。