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己婁王(きるおう、生年未詳 - 128年)は、百済の第3代の王(在位:77年 - 128年)であり、先代の多婁王の嫡男。33年に太子となり、77年9月に先王の死去により即位した。諱・諡は伝わっていない。子に蓋婁王。 初期は新羅への侵攻を行ったが、後には新羅との和親策に転じた。両国にとっての北辺にある
多婁王(たるおう、生年未詳 - 後77年)は、百済の第2代の王(在位:28年 - 77年)であり、始祖の温祚王の嫡男。10年に太子となり、28年2月に温祚王の死去により王位についた。諱・諡は伝わっていない。子に己婁王。 先王のときと同じく、即位当初から東北辺の靺鞨との戦いが続いた。初めのうち(30
が私に降臨して、『吾が子孫がいずれ国を作るだろう。この地から離れなさい。東海に迦葉原(かしょうげん)という地がある。そこは五穀が良く実る。ここに都を遷すと良いだろう。』と言いました。と解夫婁王に進言し、王は都を迦葉原の地に遷し国名を東扶余とした。このようにして扶余の都から元の王である解夫婁王がい
王一。珍又求レ除二正倭隋等十三人平西・征虜・冠軍・輔国将軍号一,詔並聴。(『宋書』倭国伝)とあり、倭は蓋鹵王による457年と458年の除正要求に先だって、倭王珍が438年に、自らに使持節,都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事,安東大将軍,倭国王」号を、さらに倭隋ら13人にも将軍号の除正