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襄宗(じょうそう)は、西夏の第7代皇帝。諱は安全。越王李仁友(第5代皇帝仁宗の弟)の子。 応天元年(1206年)に従弟にあたる第6代皇帝の桓宗を、その生母である羅太后や臣下の協力の元に廃位して自ら即位し、金から王に封ぜられた。 応天2年(1207年)秋に貢物の未納を理由としたモンゴル軍の2度目の侵
累官して知制誥となり、端明殿学士をへて杭州の守となり英宗の時期に56歳で没した。 死後に、忠恵と諡され、吏部侍郎を追贈された。書をよくして当代第一と称せられた。詩文も有名であり、著として『蔡忠恵集』『茶録』『茘枝譜』がある。 中国の書道史 中国の書家一覧 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
3月、姚襄が襄国に迫ると、冉閔は車騎将軍胡睦を長蘆へ派遣して防がせたが、姚襄はこれを返り討ちにし、その兵をほぼ全滅させた。冉閔が全軍を挙げて出撃すると、姚襄は後趙の汝陰王石琨・前燕の禦難将軍悦綰らと共に三方から冉閔を撃ち、さらに石祗が後方から呼応した。これにより冉閔は大敗し、死者は10万人を超えた。冉魏を撃破すると姚襄は灄頭へ戻っ
襄州(じょうしゅう)は、中国にかつて設置された州。南北朝時代から北宋にかけて、現在の湖北省襄陽市一帯に設置された。 東晋の太元年間に僑州として設置された雍州を前身とする。西魏により雍州は襄州と改称された。 隋代が成立すると当初は6郡12県を管轄した。583年(開皇3年)、襄