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懋(おう ぼう、515年 - 559年)は、中国の西魏・北周の軍人。字は小興。本貫は楽浪郡。開皇7年(587年)作王懋墓誌に「其先世有入仕於魏者,重復加拓,遂為拓王氏焉」とあり、複姓を称していることから胡族とみられる。 王盟の子として生まれた。王盟が関中に入ったとき、王懋はまだ幼く、山東にとどまっ
元2年(480年)、建康に召還されて侍中・中軍将軍の位を受け、府を置き、石頭に駐屯した。母の裴恵昭が死去すると、長懋は侍中の任を解かれて喪に服した。哀哭のあまり病にかかったため、石頭山から西州に移された。建元4年(482年)、使持節・都督南徐兗二州諸軍事・征北将軍・南徐州刺史に任じられた。
[脚注の使い方] ^ “이덕무(李德懋)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年8月20日閲覧。 ^ 岸本美緒・宮嶋博史 1998, p. 352-353 岸本美緒、宮嶋博史『明清と李朝の時代 世界の歴史12』中央公論社、1998年。ISBN 978-4124034127。 p352-p353
を務めた。北平で開かれた反蔣派の中国国民党中央党部拡大会議や中原大戦にも参加している。さらに中原大戦敗北後に天津の租界で成立した軍事委員会にも名を列ねるなど、徹底して反蔣活動に従事した。 しかし1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)勃発に伴い、各派大同団結の機運が高まったため、王懋功も