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突厥系沙陀族の出身。沙陀族の長の李克用の長男として生まれた。 開平2年(908年)、李存勗は父が病没した後を受けて晋陽で晋王に即位した。 臨終に際して李克用は李存勗に対して3本の矢を与え、「わしが没した後に、3本の矢のうち最初の1本は幽州に割拠して燕王と自称した劉仁恭、もう1本は契丹の太祖
、歩軍右都検校司空、邠州刺史、慈沁二州刺史に進んだ。天祐12年(915年)、天雄軍を接収した際に、天雄軍都巡按使に任じられ、新軍の動揺をうまく抑えて威服させた。天祐14年(917年)、蕃漢馬歩副総管に進んだ。 天祐16年(919年)、振武軍節度使を兼ねた。天祐19年(922年)、張文礼の乱で招討使の
れたことで、王鎔と内通し朱全忠に寝返る。しかし、李克用に敗戦し捕縛される。その際李存孝は、李存信の罪を訴え許しを請うが、許されず処刑された。 驍勇冠絶、天下無双と評され「王は項羽、将は李存孝」と謳われるなどその武勇は極めて優れていた。また、騎射にも長けており、常に先鋒を率いていた。しかしながら、
月には李義方の娘が太子妃に選ばれ王室の外戚になったが、李義方の権勢が強まることを警戒した鄭仲夫とますます疎遠になった。9月、兵部尚書であり西京留守の趙位寵が北界の40余りの城を煽って反乱を起こすと、これを鎮圧しようとしたが、苦戦を免れなかった。派遣された官軍が相次いで敗北したことに激怒した李義方は、