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され、天永2年(1111年)右衛門督を務める。永久3年(1115年)中納言、保安3年(1122年)1月23日、権大納言に任ぜられたが、同年4月8日、胸病により薨去。享年42。 ※以下、『公卿補任』の記載に従う。 寛治5年(1091年)正月7日:元服、同月:従五位下(無品媞子内親王御給) 寛治6年(1092年)11月:侍従
長元9年(1036年)に後一条天皇が29歳で崩御すると、それに伴って出家した。永承2年(1047年)9月、48歳で薨去した。 『十訓抄』には、後一条天皇が崩御した際に顕基は、忠臣二君に仕えずとして出家してしまったという逸話がある。また、『徒然草』によれば顕基は無罪ながら流罪にされたという。 ※以下、『公卿補任』の記載に従う。
男子:顕玄 女子:散位重通妾(顕仲卿女) 女子:待賢門院堀河 女子:大夫典侍 女子:上西門院兵衛(?-1183頃) ^ 竹鼻[1984: 178] ^ 『鳳笙師伝相承』 ^ 『体源抄』 ^ 竹鼻[1984: 179] ^ a b c 『水左記』 ^ 12月26日藤原顕季任(『公卿補任』) ^ 『朝野群載』第28天永中主計寮勘文
後一条朝初頭の長和5年(1016年)2月に姪の嫥子女王が斎宮に立てられると、顕定は斎宮別当に任ぜられるが、7月に妄りに故障を申し立てたことを理由に、藤原兼綱・源親方と共に恐懼に処された。寛仁元年(1017年)敦明親王に代わりに、敦良親王(のち後朱雀天皇)が立太子されると、顕定は東宮昇殿を聴されている。