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〔とうじとも〕
親泰(親敦)の子の鑑種が高橋氏の名跡を継ぎ、高橋氏は大蔵党氏族から大友一族の一万田系に変わり、以降、大友氏配下の家系となる。宝満城、岩屋城を治める。 高橋鑑種は武勇にすぐれ、弘治3年(1557年)に秋月文種が大友氏に叛
において足利尊氏に随う武将に糟谷新左衛門尉伊朝の名があるが、これが櫛橋伊朝であるという説もある。櫛橋氏初代・伊朝については不明点が多いが、「国家草昧の始め、峡内の孤城に屯し、ついに骨を沙場に曝せるなり」とあり、南北朝の動乱期に赤松氏に従って戦死したと解釈されている。
その後正長・永享期には嫡流と思しき石橋左衛門佐入道が在京すると共に、正長元年(1428年)の『満済准后日記』に「奥篠河殿、並伊達蘆名白河懸田川俣塩松石橋也」と登場し、安達郡東方を分郡に塩松を名字とする庶流を分出していた。 この正長・永享期に吉良氏や渋川氏とともに、足利一門の名門 御一家として幕府内において一目置かれるようにな