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同母兄の広平大君も李芳碩の同母兄の撫安君の養子となる。 1452年に長兄の文宗が崩御し端宗が即位すると、次兄首陽大君(後の世祖)とともに王を左右から補弼することを約束し、端宗の側近の一人となる。黄標政事を掌握した大臣らや安平大君を1453年の癸酉靖難で排除、台頭した首陽大君と対立し、1454年閏6月
李 穀(り こく、大德2年7月18日(1298年8月25日) - 至正11年1月1日(1351年1月28日))は、高麗末期の文官で学者。 字は仲父、號は稼亭。韓山の人。諡号は文孝。子は李穡(り しょく)である。高麗と元の科挙に両方に及第した人物。 李穀は、『編年綱目』・『三朝実録』・『稼亭集』の編纂
李 珥(り・じ、イ・イ、1536年 - 1584年)は、李氏朝鮮の儒学者。号は栗谷(りっこく、ユㇽゴㇰ)、字は叔献(しゅくけん、スッコン)。本貫は徳水李氏。朱子学者として李滉(退渓)とならぶ二大儒と称される。李滉の主理説に対し主気説を展開した。朝鮮王朝に仕えていたが、政争や貧困が蔓延して国防が疎か
梁山泊などの山賊の住処が近く、姻戚関係にある隣接する祝家荘、扈家荘の3村で同盟を結んで有事が起こったら助けあう約束をしていた。ある日、家来の杜興に伴われて楊雄・石秀が彼らの仲間の時遷が祝家荘に捕らわれたため、李応に仲介を打診を願いに来訪した。これに応じた李応は、祝家荘の主祝朝奉に手紙を出すも、朝奉の