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始祖である君積命は『姓氏録』和泉国神別の同氏条では枳弥都弥命(きみつみのみこと)に作り、大名草彦命(おおなくさひこのみこと)の子とされている。大名草彦命は『国造次第』に紀伊国造の第5代国造として見える大名草比古と思われ、『紀伊国造系図』には大名草比古命の子としては宇遅比古命(うじひこのみこと)しか掲げていない
本陣寺村家の家紋は五段梯子(はしご)であるが、『綱要日本紋章学』(昭和52年)[要ページ番号]によれば、「土佐山内氏家臣寺村氏が、梯子を用ひて天正十八年山中城に乗り込んだ武功を紀念するために用ひた」のが梯子紋の歴史上の登場とされている。
逃れたという。そして後に武田氏と和睦した義清は郎党を引き連れ、村上氏所縁の総州・村上城(千葉県市原市に存在した村上氏の居城の一つ)に在城したという。そして義清は信濃へ使いを送って諏訪大明神を村上城に勧請したという。そして信濃から神主を召し連れ信濃関と改名させ総州村上氏に代々仕えたという。 ^ 三原市史
自存していく方針を血判し確認した。しかし、頼みの綱である伊達政宗と愛姫の不仲が伝えられていたこともあり、清顕後室が相馬氏の娘であった関係から相馬氏を頼ろうとする相馬派が、小野新町城主田村顕盛(梅雪斎と号した隆顕弟)を筆頭として台頭し、清顕の遺志を尊重し伊達氏を頼って、愛姫に子が誕生するまで自存