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新田勢を退けた。足利勢は6月8-9日に宝飯郡八幡、6月28日に宝飯郡本野原(いずれも愛知県豊川市)で追撃戦を行い、新田勢を三河からの駆逐に成功、更に遠江まで進んで天竜川畔で新田勢と戦っている。 追撃戦の最中、6月20日に頼種は討死した。 子孫は細川氏分国の守護代を務める家柄となり、頼種の孫(頼元の子
)の父の戦死後も、男山合戦では讃岐勢を率い、阿波勢を率いた兄・頼之と共に参加している。正平11年/延文元年(1356年)3月、阿波国から伊予国平定に発向した頼之を支援した。 頼之が管領に就任して幕政に関わると守護代として領国経営を任され、国人の被官化などに務め、南朝方の河野氏と戦う。天授5年/康暦元
墓所は頼之が建立した寺である京都府京都市西京区の衣笠山地蔵院、山型の自然石が墓石として残されている。地蔵院には頼之の法体の肖像画や木像、頼之夫人の肖像画も所蔵されている。その他、頼之が細川氏発祥地に建立した愛知県岡崎市細川町の細川山蓮性院にも墓がある。頼之の位牌や念持仏なども所蔵されている。
という。 『太平記』によれば、建武2年(1335年)7月の中先代の乱の際、病床に臥していた頼貞が敵に立ち向かい切腹したという。一方、『梅松論』では、相模国河村山にて湯治していた頼貞の許に息子・顕氏から味方敗走のため上洛を勧める使者が派遣されたが、足手まとい