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の卓越した見識を評価されたことによるものだった。篤麿は国粋主義者として知られ、日露戦争前夜の頃、ロシアとの緊張が高まった際には国内で最も強硬にロシアとの開戦を主張し、対ロシア融和派として開戦回避に動く伊藤博文を恐露病と批判して対立した。 政界の巨頭だった篤麿に接近して知遇を得、何らかの眷顧を得
少将は蔵人少将と呼ばれた。五位少将が四位に叙された際に少将を止めず「少将如元」とされた場合など、四位の位階でこの官を務める者は「四位少将」と呼ばれた。例は少ないが三位に叙されても少将のままでいる場合は「三位少将」と称した(平安時代では藤原道長、藤原頼通、藤原忠家、藤原基実の4名が三位少将
どねり)に、直轄軍事力は兵衛府(つはものとねり)に引き継がれる。 靫負は西国の国造の子弟を中核として、宮城門の守衛に当たる軍である。 また、門部(かどべ)とは、宮城門を守衛する伴部のこと。宮城門にはその門の守衛を担う門部の名が冠せられてきたが、818年(弘仁9年)に殿門改号が行われて、唐風門号へ変更される。
0年)に基実は左大臣に任ぜられたが、翌年には基房は右大臣、兼実は権大納言に昇進している。特に基実は基房を警戒しており、基実の没後に兼実は基実が基房に宿意(恨み)を抱いていたと記しているほどである(『玉葉』承安2年11月20日条)。また、基実の正室は院近臣・受領クラスの藤原忠隆の娘に過ぎず、しかも妻の