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平城天皇皇子の阿保親王・高岳親王が臣籍降下したことに興る皇別氏族(賜姓皇族参照)。在原とは、『詩経』小雅「常棣」の中にある“脊令在原 兄弟急難(脊令(セキレイ)、原にありて、兄弟(けいてい)難を急にす)”の句から取ったと言われている(仁平道明説)。 一般に知られるのは阿保親王流で、賜姓に与った行平・業平兄弟の子孫が栄えた。
1009年(寛弘6年))(正三位・参議・大宰大弐)のような例外を除いて公卿に列せられることはなかった。また『更級日記』の作者である菅原孝標女なども輩出している。 鎌倉時代初期の菅原為長(1158年(保元3年)- 1246年(寛元4年))が正二位・参議・大蔵卿に昇進して以降、子孫は累代公卿に列せられた。ま
譜』によれば式部少輔源康政は、伊勢の仁木が流れなり。右京大夫義長の後胤、一志郡榊原の住人、七郎右衛門清長、三河国に移りて、源蔵人殿〔松平親忠〕に仕え奉るとある。『寛政譜』にも榊原清長が伊勢から移住したことが記されている。 『伊勢名勝志』は清長が三河国に移り住んだ時期について、疑問があることを記している。
戦功により菊桐の御紋と日の丸の御印を拝領、征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の管領職となる。 城を築き移り住んだ御笠郡の地名をもって原田氏と名乗る。 平安末期、原田種雄(『大蔵姓 成冨家譜』では種成とも)の長子種直は太宰少弐に任官される。そして嘉永年間に源氏と平氏が争い始めると、種成・種直父子は平氏方として活躍。