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1828年12月5日(文政11年10月29日)、それまでつき従ってきた戌治郎が筑前国秋月藩主・黒田長韶の元へ養子へ出ることとなった為、江戸表へ向けて発駕をされる時に、戌治郎様附きの任をはずされて、熊弥太(山内豊栄)附だけに変更された。 1829年9月7日(文政12年8月10日)、亡父正壽の跡目を無相
^ a b 一、土藩乾市郎平令面會候處、過日申入置候「大樹上坂周旋、斷(ことわり)之旨申上置候而「大樹上坂之周旋者(は)、余程(よほど)六ツヶ敷(むずかしく)存(じ)候に付、相斷(あいことわり)之旨也。尤(もっとも)之儀也。但、此儀「予(朝彦親王)より會藩え申入クレ候様
た。 ある時、家老は、吸江湾の眺めを一望できるよう2階建ての楼閣を立てたが、たまたま乾家の隅に老いた松の大木があって、眺めを遮っていたため、家老は乾家に使者を出して枝の剪定を依頼した。 正聰は仰せの次第、御尤(ごもっと)もに存ず。彼の松は、平素、拙者(それがし)の愛撫する処なれど、老職た
1660年1月28日(万治2年12月16日)、慶安の変で嫌疑をかけられ約10年間、江戸に留まっていた紀伊和歌山藩の藩祖徳川頼宣が御国(紀伊)へ国入りする際に、山内忠豊から使者を仰せ付けられ、役目を果たし1月28日(旧暦12月28日)に土佐に帰藩した。