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、留伯林屯天成、遏金兵、前後数十戦。進攻西京、録功、賜金虎符、以本職充西京留守、兼兵馬副元帥。癸酉、従征山東、攻梁門・遂城、下之。乙亥、同国王木華黎攻破燕京。丁丑、復従大軍攻下山東諸州。木華黎上其功、賜名馬二十匹・錦衣一襲。戊寅、同攻下太原・平陽。己卯、破潞・絳及火山・聞喜諸州県。時論欲徙聞喜民実天
包囲されていた重要拠点の安慶の救援に赴いたが、包囲を解くことはできなかった。陳玉成は事態を打開するために桐城に赴いたが、その間に安慶にとどまっていた劉昌林の部隊は湘軍に包囲された。劉昌林は突破しようとしたものの、馬踏石というところで敵に追いつかれ落命した。 羅爾綱『太平天国史』、中華書局 表示 編集
五言詩の善き者、時人に妙絶す(曹丕呉質に与うる書」)として高く評価された。後世においても「真骨は霜を凌ぎ、高風は俗を跨ぐ」(鍾嶸『詩品』)と評されるように、骨太で高邁な風格を特徴とする作風は、王粲とともに建安七子の中で最も高い評価を受けている。「劉公幹集」がある。 『三国志』巻21 『後漢書』巻80
建安13年(208年)の劉表の死後、蔡瑁らの政治工作もあって、兄の劉琦を差し置いて後継者となった。進攻する曹操の軍勢に対抗して荊州を保全する策を配下に尋ねたが、蔡瑁・蒯越・傅巽・韓嵩・王粲らの進言に従い曹操に降伏した。 降伏の後は、蔡瑁・蒯越らと共に厚遇され、曹操により青州刺史に任ぜられ、同時に列侯に封ぜられた。後に諫議大夫・参同軍事となった。