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楊 再思(よう さいし、? - 709年)は、中国の唐代の政治家。本貫は鄭州原武県(現在の河南省原陽県の西南)。明経に及第し、694年、武則天の下で鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に上り、左粛政御史大夫を兼ねた。中宗が重祚すると、戸部尚書・同中書門下三品・京師留守に任ぜられ、弘農郡公に封ぜられた。のちに鄭
こうした政敵への讒言や、武帝に対する阿諛追従のため、佞臣として忌み嫌われていたことが『晋書』に見られる。武帝の弟である斉王司馬攸もその一人で、中書監荀勗・侍中馮紞、皆自ら進み諂諛するに、攸、素より之を疾むとある。聡明で政治にも明るい司馬攸は、暗愚な太子の補佐、さらには武帝の後継に相応しい人物として、朝の内外を問わず期待を寄
常 勗(じょう ぎょく、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀の軍人・政治家。字は脩業。蜀郡江原県の人。祖父は常員、父は常高。叔父に常閎、弟に常廓、甥に常寬。『華陽国志』の著者・常璩は常寬の子孫。 若くして従兄弟の常忌と共に名を知られ、貧乏に安んじて、『毛詩』『尚書』を修め、多くの書物を通覧した。益州か
突厥系沙陀族の出身。沙陀族の長の李克用の長男として生まれた。 開平2年(908年)、李存勗は父が病没した後を受けて晋陽で晋王に即位した。 臨終に際して李克用は李存勗に対して3本の矢を与え、「わしが没した後に、3本の矢のうち最初の1本は幽州に割拠して燕王と自称した劉仁恭、もう1本は契丹の太祖