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1005年の黎桓の死後、各地に分配した皇子たちの内訌によって国力は低下した。黎桓の三男の黎龍鉞(レ・ロン・ベト)が即位するが、わずか3日で廃位された。代わって黎龍鉞を殺害した弟の黎龍鋌(レ・ロン・ディン)が即位する。黎龍鋌は残忍な性格で知られ、罪人に過酷な刑罰を下すことを好んだという。黎龍
は広州へ逃亡した。梁の武帝(蕭衍)は新州 刺史の盧子雄と高州 刺史の孫冏に反乱鎮圧を命じた。542年春、李賁は龍編県を占領し、ここを本拠地とした。この反乱勢力は、もともと梁の管轄下であった交州と徳州 を掌握した。 542年、南方の疫病に苦しめられた盧子雄と孫冏は、いったん広州に戻った。そして広州刺史の蕭暎
駆り集めて、パッタダガルに多くのヒンドゥー寺院を建設した。 そのため、パッタダカルの寺院群は、パッラヴァ朝のカーンチプラムの寺院群の影響を強く受けている。これらの寺院には、柱や天井、壁画に石工や彫刻家たちによって、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などに題材を取った様々な場面が彫刻された。
前廃帝(ぜんはいてい)は、南朝宋の第5代皇帝。姓は劉、名は子業、小字は法師。 元嘉26年(449年)正月、武陵王劉駿の長男として生まれた。父の劉駿は江州刺史として尋陽に出向したが、子業は建康にとどまっていた。 元嘉30年(453年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、子業は侍中下省に監禁され、殺害