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末家唱方』での幕府老中見解では『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とある。この史料自体が1849年のもので、佐土原藩や宇和島藩などが成立してから200年ほど経っており、佐土原藩などの成立当時の内分分知や新田分知という分家
土佐新田藩(とさしんでんはん)は、土佐藩の支藩である。高知新田藩ともいう。 江戸時代後期の安永9年(1780年)、土佐中村藩の旧藩主家の子孫で山内家一族の旗本家を継いでいた山内豊産が1万3000石を本藩より分与され立藩した。藩主は参勤交代を行わない定府大名であった。6代90年間続き、明治3年(187
山内一豊と2代藩主・忠義が土佐藩の専用の御船蔵として整備・拡張した。 藩の御船蔵のあった所在地は、現在の高知市仁井田の入口にあたる市役所の三里支所付近より西上町(二段道路)を含め、西進していき、桑野神社付近までの海辺の約一キロの間に存在していたという。御船蔵は周囲を大竹の菱垣で囲み、全体に松の林が茂
土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。 土浦は戦国時代、戦国大名である小田氏が領有していたが、小田氏が滅びると結城氏の所領となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、結城秀康が越前福井藩に移封され、代わって譜代の松平信一が3万5000石で土浦