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梁山泊などの山賊の住処が近く、姻戚関係にある隣接する祝家荘、扈家荘の3村で同盟を結んで有事が起こったら助けあう約束をしていた。ある日、家来の杜興に伴われて楊雄・石秀が彼らの仲間の時遷が祝家荘に捕らわれたため、李応に仲介を打診を願いに来訪した。これに応じた李応は、祝家荘の主祝朝奉に手紙を出すも、朝奉の
されて強制離縁、流刑され1860年11月、哲宗の命令で李瑭の養子に選ばれた。1860年11月、李瑭の養子資格で完平都正に任命されと2か月後に完平君に陞進された。以降、様々な李氏朝鮮の王室行事に王室の一員として参加し、比較的李氏朝鮮王室の年長者に王室行事を主管した。
効として、慶平君の爵号を剥奪されて王族の身位を喪失し、諱を晧から「世輔」に改諱させられた。12月17日全羅南道莞島郡薪智面薪智島に流刑になり、囲籬荐棘の扱いを受けた。梅泉野録では安東金氏の憎悪を買い、流刑時には瀕死状態の時も多々あったという。 1864年2月20日出生地に流刑地が変更された。1
李 最応(イ・チェウン、이최응、1815年3月27日 - 1882年7月24日)は、李氏朝鮮の王族で興宣大院君の兄。称号は興寅君。字は良伯、号は山響。諡号は文忠。 大院君政権では要職に就くことはなかったが、1873年に大院君の失脚で閔氏政権に登用され、1874年に左議政、翌年には領議政になった。